石 リッツォス(中井久夫訳)
日々が来ては去る。努力も、新鮮な驚異もなく。
光と記憶に濡れそぼつ石。
ある者は石を枕にする。
ある者は着物を脱いで、風で飛ばないように石で押さえ、泳ぐ。
ある者は石を腰掛けにする。
ある者は目印に。畑の、墓地の、壁の、森の--。
陽が沈む。家に帰る。浜の石は卓に置いて小さな像になる。小さなニケの像。アルテミスの猟犬。昼、若者の濡れた足の台になったこの石は、睫毛の影の恋パトロクロス。
*
リッツォスの詩は映画の1シーンのように感じられる。(これは、昨日書いたことにつながる。)いつも映像がくっきりしている。そして、その映像は、いつもその「風景」をみつめるひとと強い関係がある。
登場人物が風景をみつめるのは当然である。
リッツォスは登場人物がみつめる風景と同時に、実は、その登場人物そのものを「風景」のようにみつめる存在を描く。
だれかをみつめるだれか。
だが、それはだれなのかは書かない。関係を少し感じさせるだけである。
映画、映像ならば、その視線にそまった輝きがスクリーンに投げかけられることになる。ところが、ことばは映像ほど「視線」の色をつたえない。映像は「肉体」的な何かを感じさせるが、ことばはもっと抽象的で、「色」がない。
……はずである。
しかし、この詩には「色」がある。独特の「匂い」がある。「視覚」をとおってくるときの、ときめきのようなものがある。
だれか(A)をみつめるだれか(B)。そのときの、Aに対するBの思いを感じさせる「色」がある。
ある者は着物を脱いで、風で飛ばないように石で押さえ、泳ぐ。
この1行には、「だれが」泳いだのか描かれていない。「だれか」がどんな肉体をしていたか、書いていない。けれども、その「肉体」を裸の輝きを、まぶしい思いでみつめている視線が「肉体」として描かれている。その「視線」のために、風景に「色」がついている。その「色」を消し去ろうとしてあがく視線が「石」に向かい、石につまずいている。
ある者は目印に。畑の、墓地の、壁の、森の--。
はとてもかわっている。ほんとうに「畑」の目印に? いや、そんなことはない。「畑」のなにかの目印だ。畑そのものの目印なんて、ありえない。畑は広い。目印がなくても畑だとわかる。目印は、何かを植えた、埋めた目印である。墓地の目印も何かを埋めた目印だ。壁の目印も何かを塗り込めた目印だ。
そこには、つまり、隠されたものがある。
隠されたものの「印」、暗示、象徴が「石」なのだ。
何をほんとうは隠しているのか。「ニケ」、「アルミテス」(犬)、「若者」、「睫毛」、「パトロクロス」。
これはリッツォスの世界というより、カヴァフィスの世界かもしれない。中井はカヴァフィスも訳している。同じギリシャの詩人である。リッツォスの方が、私の印象では禁欲的である。
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