リッツォス「証言A(1963)」中井久夫訳(1) | 詩はどこにあるか

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 リッツォス「証言A(1963)」中井久夫訳は「象形文字」同人誌版、およびインターネット版で紹介してきたが、まだ紹介していないものもある。この「日記」であらためて手元にある中井の訳を紹介していく。なお、中井の訳の著作権は中井久夫に属します。転写(コピー)する場合は、かならず中井久夫の了解をとってください。

 *以降の文章は、私の感想です。





 彼女は鎧戸を開けた。シーツを窓枠に干した。陽の光を眺めた。
 鳥が一羽 彼女の眼を覗き込んだ。「私は独り」と彼女はささやいた。
 「でもいのちがあるわ!」。彼女は部屋に戻った。鏡が窓になった。鏡の窓から飛び出したら自分をだきしめることになるでしょう。



 短い文章のリズムにひかれる。基本的に1文に1動詞。切断された印象があるが、その切断の感じが、孤立、孤独と結びつく。「一羽」「独り」を強調する。ただし、ぷつん、ぷつんと切れながら、「意味」の連続性はしっかりしている。固く結びついている。その切断と結合の感覚が、矛盾が、後半になって「彼女」を突き動かす。切断と結合が、彼女のなかから何かを引き出す。彼女自身の力を引き出す。

 鏡が窓になった。

 詩の白眉はここにある。
 「鏡」はもちろん「鏡」である。それが「窓」になる、ということは物理的にはありえない。けれど、意識のなかでは、そういうことがある。これは「比喩」ではなく「事実」である。意識の真実である。
 切断と結合が、彼女の意識に作用し、鏡を窓に換えてしまう。
 そして、このとき、彼女はそれまでの彼女ではない。「鳥」に「なる」。鏡が窓に「なる」なら、彼女は鳥に「なる」。鳥になって、そとへ飛び出す。空へ飛び出す。
 鳥は空気を翼でおしのけて飛んでいるのではない。自分を抱きしめて飛んでいるのである。「いのち」を抱きしめて飛んでいるのだ。

現代ギリシャ詩選
中井 久夫
みすず書房

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