野村喜和夫『言葉たちは芝居をつづけよ、つまり移動を移動を』 | 詩はどこにあるか

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野村喜和夫『言葉たちは芝居をつづけよ、つまり移動を移動を』(3)(書肆山田、2008年10月10日発行)

 野村喜和夫はノーテンキである、と私は思う。それはたとえば、「むきだしで純粋な」次の部分。

 とにかく出てゆくこと、歩んでゆくこと。ぼくは誰なのか、というふるびた問いをかくじつに無にしながら、けれどますます可塑的な街の捉えがたい奥ぶかく、ひとむらの草地を烈しく臍とする蛇にさえ導かれて。

 「とにかく出てゆくこと、歩んでゆくこと。ぼくは誰なのか、というふるびた問いをかくじつに無にしながら、」というのは野村の永遠のテーマである。こういうことを楽々と書いてしまうことが、正直であり、またノーテンキの所以である。
 「ぼくから出てゆくこと」というのは、そう書いてしまっては何も書いたことにならない。そういうことばをつかわずに「ぼくから出てゆく」その実践こそが詩である。しかし、書く。書いてしまう。書いてしまえば、ことばは書く前とは違ってしまうことを知っていながら、書いてしまう。
 さすがに、それだけではまずい(?)と思うのか、「けれど」以下は、何が「けれど」なのかわからないことばで濁している。「論理」をぱっと手放し、カンでことばをたぐりよせる。
 「奥ぶかく」→「草地」→「蛇」。
 あ、ずっごく単純。想像力の動きが、くっきりと見えてしまう。「烈しく」「臍」という視線(想像力)の攪拌など、まったく無効である。もちろん野村はそれが無効であると承知で書いている。それがノーテンキ。
 このノーテンキは別なことばでいえば「純粋」。

 あ、タイトルそのものに「純粋」ということばがあったなあ。「むきだしの純粋」。あ、それこそが野村の本質なのである。
 剥き出しの純粋さは馬鹿に見える。ノーテンキに見える。それでも、その剥き出しの純粋さが汚されずに存在できるのは、その純粋さは汚れる先に、他者を洗ってしまうのである。そういう剥き出しの純粋さは、それに対して「馬鹿」「ノーテンキ」と言ってしまった瞬間から、実はその批判者が「馬鹿」「ノーテンキ」というくだらない基準でしか野村を見ていないということを宣言してしまうからである。(これは、私のことを、反省をこめて、書いている。)

 「馬鹿」「ノーテンキ」「純粋」ということばに頼らずに、どうやって野村のことばのパワーに触れるか。
 それは、実は、とてもむずかしい。
 いちばん間違いのない方法は「好き・嫌い」である。「好き」と言ってしまうのが、たぶん野村の作品に対するいちばん正確な批評になる。それ以外のことばは、何を書いてみても、結局何かの受け売りになるだろう。「好き」ということを、かっこつけて言い直しても、「好き」以上には何も伝えられない。

 と、開き直って、私が「好き」といいたい行を少し引用しておく。「反・彼方」。

その何処にでも 雨が
ふりつづいた むしろおれが
ふりつづいた
雨として
言葉汁として
雨はおれ おれは雨



群れ
ただ
群れ たとえば
単語として おれは
ふりつづいた 名づけるのではなく



名づけるのでなく
単語として
おれのうえに おれは
ふりつづいた
ふり つづいた
           (引用した「単語」は本文ではゴシック体)






ニューインスピレーション
野村 喜和夫
書肆山田

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