林嗣夫「体温の明けくれ」「冷ややっこを食べながら」、小松弘愛「しり」 | 詩はどこにあるか

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林嗣夫「体温の明けくれ」「冷ややっこを食べながら」、小松弘愛「しり」(「兆」139 、2008年08月10日発行)

 林嗣夫「体温の明けくれ」は熱がでたときのぼんやりした意識を描いている。ぼんやりしたまま、電子辞書で「体温」という項目をひき、「体温」に出でくる「物質代謝」ということばをひく。ことばをたどりながら、自分のことばを動かしてゆく。ことばを動かすのは、ことばなのだ。辞書のなかで、「異化」「同化」ということばに出会い、そこからは辞書ではなく、林の「肉体」がことばと交わる。

うかつにも
はるばると異化、同化に明けくれ
うかつにも
体温に明けくれ

 そして、体温を正確に測るには「口の中」「お尻の穴」がいいのだけれど、うーん、抵抗がある。というわけで、普通のひとがするように「腋の下」にたどりつく。
 そこから、ことばがゆったりとたゆたう。

体の外部でありながら内部
血管に囲まれた内部でありながら しかし 外部

横になって
はるばると同化、異化の明けくれ
わたしがほんとうに行き着きたいのは
口ではなく
お尻でもなく
腋の下のような場所かもしれない

 「腋の下」は「肉体」であるけれど、ことばによってとらえられた別の場所。体温計をはさむときの、内部と外部の接点なのだけれど、林の一連のことばのなかでは、なにか微妙に違っている。熱のある頭が漂ってたどりついた「無意識」のような、不思議な場所。まだことばにされなかった「肉体」のどこかである。どこかであるかはだれもが知っているけれど、すこし違ってしまった「肉体」の位置。
 ことばに動かされ、ことばが動いてゆく。そして「肉体」と交わって、体温の熱をあびて、不思議な温みにそまって、知っているのに知らないなにかになる。
 こういう「場」に詩がある。

 「冷ややっこを食べながら」も同じだ。意識はことばに出会う。そして、ことばはことばを動かしてゆく。ことばは動かされるままに動いて行き、なんとなくいつもとは違ったことばになる。どこが違う? 正確には指摘できないなにかが違う。正確に指摘できないのは、それが「既成のことば」ではなく、見慣れているけれども林の意識によって洗い直された「新しいことば」であるからだ。

冷ややっこを食べながら
あしたのことを考えていたら
あしたがちょっと
四角に見えた

冷ややっこを食べながら
あの女(ひと)のことを思っていたら
あのひともちょっと
四角に見えた

白いさっぱりした宇宙の中で
太陽は四角
わたしも四角

ひやっとする新しい時間が
のどを落ちていく
胸を落ちていく

冷ややっこを食べながら
あしたのことを考えてたら
きょうのかどかども
やわらかくなった

 「新しい時間」ということばが出てくるが、詩は、たしかに「新しい時間」を誕生させることば、生成に立ち会うことばなのである。
 どのれんのことばも、みんな知っていることばなのに、どれもこれも林の肉体を通ってきて「新しく」生まれ変わった新鮮な、気持ちのいい冷や奴のような、食欲をそそることばである。



 小松弘愛「しり」は、「土佐方言」をめぐるシリーズ。この作品でも、林のように「辞書」が登場する。辞書に導かれてことばが動きだしている。
 ただ、今回の小松の作品は辞書の領域からはみださない。
 土佐方言の「しり」には「女陰」という意味もある。そのことばがほんとうに「絶滅種」になってしまって、小松が、いきいきとした肉体としてとらえることができなかったのか、そのことばの前で恥ずかしがっているのか、ちょっとわからない。もし、「女陰」という意味の前で恥ずかしがって、「しり」と小松の肉体が交わることができないのだとしたら、ちょっと(かなり?)、おもしろい。あ、そうなんだ。小松は恥ずかしがり屋なんだ、といままで気がつかなかった小松に出会ったようで、詩そのものとは別に、愉快になった。




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