小野山紀代子『望遠鏡を見る人』 | 詩はどこにあるか

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小野山紀代子『望遠鏡を見る人』(梓書院、2008年09月01日発行)

 詩は、突然、詩ではなくなるときがある。たとえば、「橋の上」。3連目までは詩が動いている。

静かに満ちてくる
夕暮れの汽水を
鷺が一羽歩いている

歩みを止めて
橋の上から
その鷺を見ている人がいる

一枚の絵だが
その人は
帰る道を見失ってそこにいるのだ

 この3連を動かしている詩は視線の詩である。河口に近い場所だろう。その広がりから鷺、鷺から人、そして絵。絵のなかに焦点を絞り込んだあと、人のなかへ反転する。このリズムがとてもいい。
 ただし、そこまでである。
 視線がとまり、観念が動きはじめる。

否定され取り残され
忘れられて
鷺を見ている

なにもかもどんどん通りすぎる

 何が通りすぎたのか。「どんどん」とは具体的にはどれくらいか。目が動いていない。小野山は、見えないものを見ようとして観念を動かしているが、それでは詩にならない。見えないものも肉眼で見なければならない。視線が、その見えないものをひっぱりあげてこなければ、詩にはならないのである。
 ことばの動かし方を誤解していると思う。

 「忘れかけた子守歌」にも魅力的な行がある。

あれは窓ですか
鏡ですか

 だが、この作品でも、そういう魅力的な行が登場したとたんに、そこで詩が変質してしまう。あと観念になってしまう。

ジャン・コクトーの「オルフェ」の
ガラス売りでもやって来そうな路地
少女の頃に見た仏映画の
ガラスの反射
鏡のゆらぎ

 「少女の頃」がせっかくの現実を「枠」のなかにとじこめてしまう。思い出という「枠」のなかに。他人の思い出など、おもしろくもおかしくもない。もし、それがおもしろいとしたら、それはほんとうは思い出ではなく、思い出という形を借りた現実である場合だけだ。