この映画は、ほんとうなら出演(主演)緑、と書くべき映画である。緑。植物。それが主役の映画である。ところが、カメラが悪く、緑が主役になれなかった。大都会でそよぐ緑。その苦悩が、緑を反乱に駆り立てる。人間を襲いはじめる。都会に住む人間には、その怒りがわからない。ただ、とまどい、逃げるだけである。そういう映画になるはずだったのだろう。
狙いは、わかる。わかるけれども、そんなことは「頭」でわかってもしようがない。
スクリーンに映った緑の動き。風にそよぐ。葉っぱが裏返る。ざわざわという音。ざわめきが、その葉っぱの動きがさらに風を呼び起こし、つぎつぎと広がって行く。都会(ニューヨーク)のセントラルパークからはじまり、ニューヨークを超えて、郊外へ、ひとの住んでいない山の中まで、と広がって行く。その感じが、緑の動きそのものとして表現されていなければ、なんにもならない。
スクリーンに映る緑、木々の葉や草の動きが、まったくこわくないのである。緑が変化していいはずなのに、ぜんぜん変化しないのである。
私はアメリカ映画の緑は美しいと思ったことはほとんどない。ウディ・アレンの映画が唯一の例外だが、アメリカの映画は緑の美しさに鈍感なのかもしれない。そんな鈍感なアメリカ映画が、緑の反乱、緑の暴動を描けるはずがない。
映画はしようがなしに(?)、緑の反乱、緑の暴動を、夫婦の愛の確認(愛の欠乏からの脱出)によって「和解」へと収束させるのだが、何だ、これは? 思わず、怒りが込み上げる。
M・ナイト・シャマランは、ほんとうなら、もっとおもしろい映像がとれる監督である。出世作「シックス・センス」では、ブルース・ウィリスが事故にあったあと、一転して、大学の全景がスクリーンに映される。何ヶ月後、という字幕とともに。そのときの、大学の全景の異様さ--それまでの映像とは違ったトーンが、これは現実ではない、と感じさせる。そのシーンが、あの映画のすべてだった。見た瞬間に、あ、これからは何か「日常」とは違ったものが始まるという緊張感があった。(そして、実際に、その後の展開は「日常」ではなかった。「日常」に見えたが「日常」ではなかった。)
「ハプニング」の緑、木々や草の動きには、それがない。大失敗作である。
これに比較すると、宮崎駿の「崖の上のポニョ」は傑作である。おもしろくはない作品だが、水中のシーンはすばらしい。アニメなのに(?)、水の感覚がつたわってくる。透明な水。描かなくていいはずの「水」がきちんと描かれている。水中で目を開くと、全体が薄い「水色」に染まって見えるが、その薄い水色の感じが、水中のシーンでとても自然に表現されている。水のなかに潜って世界を見ている感じがする。水中で、洗濯物が風にそよぐシーンの美しさにはびっくりしてしまう。--しかし、宮崎駿のやっていることは高級すぎて、逆に、だから? といいたくなるような感じなのである。
宮崎駿は子ども向けの「童話」を描くふりをして、実際は、アニメで水を同表現できるかを試みていた。それはとてもすばらしい。傑作としか言いようがない。(そして、水のシーンが傑作だから、私は、作品全体としては駄作だと思う。あまりに水に夢中になりすぎていて、ほかの部分がついていっていない。)
M・ナイト・シャマランは緑を描こうとして、緑の「み」の字にも届いていない。
この違いは、ちょっと、無慈悲なくらい大きすぎる。
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