「ほたるいかに触る」のなかにとても興味をひかれる部分があった。水族館(?)で触る。そして、その触って楽しむコーナーのうえに、「食べないでください」という注意書きを見つける。そのことのことを書いている。
いかの仲間は、眼がいいという。レンズなどが精巧に出来ていて、よく見えるらしい。十センチに満たないほたるいかの眼は、いきいきと黒い。見られているな、と確信させる眼だ。まばたきはしない。こんなものを、捕まえて食べるのだ。闇のなかで脅かされれば青い光を流す、このようなものたちを。
ふれて構わないコーナーのほたるいかたちは、囚われの身であることを把握しているのだろうか。知らない生きものの手に追われたり、逃げたりしながら、もうどこへも行かれない。
「食べないでください」。言葉は告げる。眺めていても、とくに食欲は湧かない。食べたりはしない。冷たい水に両手を浸したまま、心だけ後退する。詩に似た影が、足元に溜まる。
ほたるいかを描写する蜂飼のことば。そのことばと「食べないでください」が重なり合わない。どちらもことばであるのに、互いに受け入れない。どこを探してみても、蜂飼の肉体のなかには「食べないでください」に対応する肉体がない。蜂飼の肉体は「食べる」ということばと、この瞬間、なんの共通点ももたない。
ことばが「肉体」をはなれてゆく。あるいは「肉体」がことばをはなれてゆくのか。そのことを、しかし、蜂飼は「肉体」ではなく「心」ととらえている。
心だけ後退する。
そして、ことばだけが、重なり合わないことばだけが、「溜まる」。動いていくのではなく、「溜まる」。その感じを、
詩に似た影
と蜂飼はいう。
「詩」とは、蜂飼にとって、他人のことばと重なり合わないことば。蜂飼の「こころ」が、他人のことばから離れ(後退し)、その離れた場(後退した場)で、たまりつづけることばのことである。
「詩に似た影」というのは「比喩」である。
「比喩」とはそこに不在のもの。そこに不在だからこそ「比喩」というものが成立する。そういう場所で、蜂飼は「詩」ということばをつかっている。
この定義を、とてもおもしろいと思った。
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