私は不勉強なので管啓次郎の詩をこれまで読んだことがない。(読んでいるかもしれないが、記憶にない。)読んだことのない詩人の詩というのはいつも新鮮である。「Agendars」は6のパーツから成り立っている。最初に読んだ「Ⅰ」がとても新鮮だ。
この部屋を工房とするときが来た
この書き出しに管のすべてがある、と1行目を読んだ瞬間から感じた。1行目を読む、とはいっても、1行目を読むときはすでに視界のどこかには2行目、3行目、それから1行目の前の空白も入ってきており、そういう視界のなかで「とき」ということばがひときわ強く響いてくる。「とき」はそのまわりにあるものの中心にある。あ、管は「とき」というものそのものを書こうとしていることが、どきりとするほど強く響いてくる。「か行」「た行」がゆらぐ1行の音のなかで「時」ではなく「とき」のまま強く強く響いてくる。
「時」ではなく「とき」なのは、「とき」を管は描くのだが、その「とき」がまだ「時」にまで結晶化していない--なにか、まだ手さぐりな状態、生の部分をたくさん抱え込んでいるからであろう。そういう予感(?)のようなものが、書き出しの1行のなかにつまっている。
こういう1行があれば、あとはただことばが自然に動いていく。管は自然にではないというかもしれないが、ひとりの読者から見れば、作者の苦労などは、それが膨大であればあるほど苦労には見えない。偉大な画家の絵も、彫刻家の彫刻も、作曲家の音楽も、それが完成されていればいるほど、それが「自然」に、まるで何の苦労もなく完成されていると感じるのに似ている。
この部屋を工房とするときが来た
制作するのは水のない果実
輪郭は星座のごとく破線によって与えられ
ながらかな斜面となって海に落ちるだろう
管は彫刻家なのかもしれない。「水のない果実」とは彫刻のことかもしれない。そのなかに「星座」(宇宙)の運動がある。そして、それは「海」という私たちのなつかしい現実とパラレルな世界である。「水のない果実」の「水」は「海」へとかえり、「水」そのものを「水」のないはずの「果実」(彫刻)のなかにたたえる。完成した彫刻は、素材にもよるがそれが金属でできたものであれば「水」をふくまない。しかし、私たちはそれが完璧な作品であるとき、その内部に「水」を感じる。そこに存在しないはずのものが、そこに存在する。--それが芸術である。そして、その存在しないはずのものを存在させるのが「とき」なのだ。「とき」のなかを駆けめぐる運動(宇宙の運動そのもの)が、運動としての「水」を浮かび上がらせる。「運動」の「場」が「とき」なのである。
ことばはどこまでも飛躍する。障害物のない、宇宙という巨大な空間をかけめぐり、その運動の軌跡そのものを「とき」という「場」にかえていく。「とき」と「場」が重なり合い、そこに「精神」が誕生する。この「精神」は「感情」と置き換えてもいい。何と置き換えてもいい。
この部屋を工房とするときが来た
制作するのは水のない果実
輪郭は星座のごとく破線によって与えられ
ながらかな斜面となって海に落ちるだろう
その自由な調律、重なり合う爪跡
遠ざかる塔の陰に跳ぶ三羽の軽い鳥
この世でいくつの帝国が衰亡を繰り返そうと
ひとつだけ望みの共和国があればきみにはそれでいい
それは雪をサトウカエデの本質として見抜く土地だ
ことばからことばへ。巨大な飛躍がある。その巨大を一気に埋める運動のスピード。スピードのなかの緩急。不思議なことに、スピードは速いだけでは早くない。つまずき、あるいはゆるい部分があって速くなる。
たとえば「遠ざかる塔の陰に跳ぶ三羽の軽い鳥」の「塔」は私には雑音に響くけれど、その雑音が「遠ざかる」「跳ぶ」「鳥」という音のなかで、不思議な低音として響く。ほかのことばのゆらぎを引き締める。「軽い鳥」の「軽い」というゆるさは、そのゆらぎを一気に引き受けている。まるで、これ以外にことばの動きようがない、という感じがする。
「ひとつだけ望みの共和国があればきみにはそれでいい」のなかの「い」という母音の響きは、その前の行の「この世でいくつの帝国が衰亡を繰り返そうと」の「いくつの」の「い」から始まっている。
そういう「音」とともに(あるいは音にささえられた運動によって)イメージは華やかに散らばる。散らばることで宇宙になる。星が散らばることで宇宙になるように。そして、その「散らばり」こそが「とき」なのだ。「とき」はどこへでも「散らばってゆく」。拡散してゆく。拡散しながら、その拡散をささえるブラックホールとして存在する。拡散のなかに求心があるのだ。
私の書いていること、拡散と求心が同時にあるということは、厳密に言えば「矛盾」なのかもしれない。拡散か求心かどちらかひとつが存在する、というのが論理的なのかもしれないが、そういう論理を超えて存在するものがある。それが「詩」である、と定義すれば、ここにはまさしく詩そのものがあることになる。
これは、おもしろい。管の詩は、おもしろい。
「Ⅰ」には、私が引用していない行がまだ半分ほど残っている。「Ⅰ」から「Ⅵ」まで全部引用すれば膨大な行になる。残りは「たまや」を読んでください。そして、興奮してください。「とき」そのものに出会ってみてください。