フランソワ・ジラール監督「シルク」 | 詩はどこにあるか

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監督 フランソワ・ジラール 出演 マイケル・ピット、キーラ・ナイトレイ、役所広司

 この映画はとても奇妙である。前半と後半がまったく違っている。
 前半。蚕の卵を求めてフランスから日本にわたる男。そこで、男は男としてのありがちな夢を見る。つまり、東洋の神秘的な女にひかれる。謎めいた肌のふれあい、読めない手紙が男の思いを駆り立てる。ありがちな、つまり紋切り型の描写がこの映画の前半を彩る。そうか、西洋から見ると日本の女はこんなふうに見られているのだな、ということがよく分かる。日本の風景、日本の男がどう見られているかもよく分かる。
 後半。男はフランスに帰って来て、妻との生活を再開する。男の胸のなかには日本の女が残り続けている。妻は、そのことを知る。セックスすることによって。このセックスシーンが、なかなかすばらしい。前半と後半がまったく違ったものになることを、1分にも満たないセックスシーンで、くっきりと暗示するのである。女は、男が自分の体を求めていない(こころも求めていない)ことを瞬時に悟る。そして、セックスの途中でセックスを拒むのだ。長い長い中断(男が日本に行っていた期間の中断)にもかかわらず、その中断を埋めることを拒むのである。このシーンを見逃すと、この映画はまったくわからなくなる。
 男は、この拒絶の意味がわからない。すでに男のこころは妻の方に向いていないからである。男は、このときから、いわば2人の女のあいだで宙づりになる。2人の女の、どちらのこころも分からないのである。わからないまま、それでも男はなんとか女を求める。求める気持ちは、近くにいる妻を求める気持ちよりも、より遠くにいる謎の女に対して強く働く。
 ここから映画は、ほんとうは映画自身の「白眉」の部分へ向かうはずである。はずであった。それが狙いである--ということは、とてもよく分かる。映画を見ながら、一瞬、わくわくしてしまう。(前半と後半を区切るセックスシーンで、私は、かなり期待してしまった。)
 ところが、映画はここから映画ではなくなってしまう。「小説」になってしまう。ことばの世界になってしまう。見るべき映像は何一つない。前半にあふれかえっていた、日本への幻想、夢想に彩られた映像はもちろんない。ひたすら、ことば、ことば、ことば、ことば、の世界である。それを象徴するのが、男には読むことすらできない「手紙」である。女が書いている。
 映画は、その「手紙」の解読(?)へ向けて進む。その「解読」がまた、とてもとてもつまらない。男は自分で読む努力をしない。男がすることは、それを読むことができる人間(日本人の娼婦)を探し、それに読んでもらうということだけである。こんな安直な姿勢からは「恋」は生まれないし、「愛」も育つはずがない。簡単に言ってしまえば、もう、それだけで結末は見えてしまうのである。
 映画が映画であることをやめ、ひたすらことば、ことば、ことばを追いかける。その結末。男は長い長い手紙が、実は妻が娼婦に頼んで書いてもらったものだと知る。それは、妻が、男が日本の幻の女を追い求める情熱で、妻のこころを探してもらいたい、追いかけてきて、とせつせつと訴える手紙だったのだ。主役は、実は男ではなく、男を待ち続ける女だった--とこの映画は最後の最後でどんでん返しのようにして明らかにする。
 これは、ひどい。真ん中のセックスシーンでそれが予言されているとはいえ、これはあまりにもひどい。映画として、あきらかな反則である。
 男は、妻こそが、日本の謎めいた女、こころを隠して、思いを燃え上がらせる神秘的な女、理想の女だったということを最後の最後に知る。納得する。ここに、西洋の男の夢が託されているのかどうか、わからないが、一方的に男の視線と、ことばだけで、そういう世界を浮き彫りにしても、映画にはならない。女の肉体をもっとていねいに映像化し、そこから男のわがままを浮かび上がらせるようにしないと映画ではない。
 監督の描きたいことはよくわかる。そして、よくわかるからこそ、そんなものは映画ではない、と私は思う。映画とは、監督の描きたいもの(ストーリー、意味)を超えて、映像がかってに暴走するものである。ストーリーと意味を超越する映像、それに音楽が加わってこそ、映画である。あのシーンが好き、あのときの主人公のようにかっこよく動きたいというような欲望を呼び起こすものこそ映画である。あの映画は、こういうストーリーでした。監督の思想は、こういうふうにことばで要約できます--というような作品は映像作品とは言えない。
 見終わった瞬間に腹が立つ映画である。