監督 アンドリュー・ドミニク 出演 ブラッド・ピット、ケイシー・アフレック、サム・シェパード
南北戦争後のアメリカ。伝説のアウトローと彼を暗殺した男の野望と悲しみを描いている。
映像がすばらしい。19世紀という時代を知らないのだけれど、あ、19世紀の風景だと言いたくなってしまう。空の色、枯れた草の色、雪の色--そういう自然の色がすばらしい。強い自己主張ではなく、そこに存在しながら何か他のものに頼っているというと誤解があるが、まわりと溶け合っている。融合することで、そこに存在する。その融合の間を、人間が動くとき、そこに複雑な変化が始まる。
これはそのまま男たちの関係にもあてはまる。それぞれが何か複雑な交錯と融合を生きている(アウトローの文法のようなもの)のだが、それが微妙に狂いはじめる。野望によって。その不思議な交錯する感情を邪気いっぱいのブラッド・ピットと繊細なケイシー・アフレックが演じる。互いの表情の中に互いの野望が映る。反映する。反映するからこそ、そこから予想を超える動きが加速する。たいへんおもしろい。
象徴的なのがクライマックスの暗殺のシーン。
ブラッド・ピットが壁にかかった馬の絵のほこりを払う。絵にはガラスがはめられている。ブラッド・ピットはそのガラスにケイシー・アフレックが銃を構える姿を見る。これは、まるでそれを見たくてブラッド・ピットが馬の絵(そのガラス)に近づいたとさえ思えるほどの、不思議な静けさをたたえたクライマックスである。(ブラッド・ピットがその瞬間を望んでいたということは、その寸前に、彼が銃を体から外すシーンに暗示されているのだが。)
そして、このときの映像が、またとても美しい。灰色の、つまりモノクロの絵、それに映る色彩を殺した男の服、つまり白いシャツ、黒いズボンが交錯する。そのぼんやりとした交錯の中に、ぼんやりさ加減を超えて劇が走る。ドラマが炸裂する。ただし、ここでも色は19世紀なのだ。血は真っ赤ではない。黒だ。衝撃をあおる赤を拒絶し、黒い力で引き込む。
映画全体をつらぬくこのトーンはすばらしい。美しい。
しかし、と私は付け加えずにはいられない。『長江哀歌』がすでにやったことの二番煎じである。この映画のトーンは『長江哀歌』をなぞっているにすぎない。これから10年はだれもが『長江哀歌』をなぞって映画を撮るだろうと思う。日常が抱え込む生活の傷跡をていねいに再現する映像文法をさまざまな形でまねるだろう。この映画は、それを19世紀の自然とファッション(家の中のインテリアを含む)に応用した。すばらしくよく消化した。ほとんどオリジナルの領域だけれど、私はやはりそこに『長江哀歌』の影響を見る。もっともこれは私が『長江哀歌』の影響下でこの映画を見ただけ、ということになるかもしれないけれど。