戦時中の「買い出し」の体験を書いている。その2連目。
小さい噛みに描かれた地図の皺を伸ばすと道はそれだけ伸びる
この1行にこころを奪われた。遠いのである。その遠さが、地図を広げた瞬間、目に見える形になって迫ってくる。地図を広げようと広げまいと、実際の道は伸び縮みはしない。けれども肉体のなかで伸び縮みをする。伸び続ける。
小さい噛みに描かれた地図の皺を伸ばすと道はそれだけ伸びる いつも足の裏が燃えた 口の奥に湧水の夢の音がする
伸びた道は肉体の感覚を、その道に沿って伸ばす。道を歩くのか、肉体の記憶を上書きするように歩くのか。その肉体の、上書きの、上書き。常にいまある肉体の感覚を、より苦しい感覚で塗り替えていくことができたときだけ、いのちはつながる--そういうことを阪本はていねいに書き続けている。地図の皺が伸びるように、肉体の感覚の皺も常に伸ばされ、その触手はつねに新しいものをつかんでくる。知っているけれど、常に新しい苦しみと、それを乗り越えるための夢、そうした夢が覚醒させるさらなる苦しみ、悲しみを。--それはたたまれ、伸ばされ、さらにたたまれては伸ばされる地図のようでもある。
「買い出し」が成功したあとは、次のように描かれる。詩の最終行。
夕暮れの帰路は近く荷は軽く耳の後に翼の透明な羽搏きが聴こえた
実際の道は同じ距離でも、それは短く感じる。そして芋を背負っているから実際は荷は重いはずなのに、逆に軽く感じる。買い出しが成功しなかったら、袋が空っぽでもそれは重く感じる。--そうした肉体の感覚がていねいにあがかれているからこそ、途中にはさまれる批判が力あふれるものになる。
お国の為だって? お国ってなんなの? あたし達の為じゃないみたい
「お国」は肉体を持たない。戦場への距離は肉体ではなく「数字」ではかられる。戦場での肉親の死は血のつながりを、肉のつながりを無視して「数字」で語られる。戦場から離れた日本の国内においても、人間はひとりとひりの肉体を持った存在ではなく「数字」で語られる。
そうした「数字」を乗り越えるために、肉体が必要である。ことばは常に肉体をくぐりぬけることで真実になる。真実は「お国」の数え上げる「事実」とは異なる。そのことを阪本の詩はいつも語りかけてくる。