ウディ・アレン監督「タロットカード殺人事件」 | 詩はどこにあるか

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監督 ウディ・アレン 出演 ウディ・アレン、スカーレット・ヨハンソン、ヒュー・ジャックマン

 ウディ・アレンはすっかりイギリスが気に入ったようですねえ。階級社会の個人主義、他人には干渉しないという冷たい感じが楽なのかな? 他人は生きていても、自分と関係がなければ存在しないとみなすことのできる能力(?)があってはじめて、自分を笑いのめすというユーモアが生まれるのかもしれない。そういう社会では、出来事はすべて物語になる--つまり、脚色可能なもの、になる。不都合なものはなかったことにして、都合のいいことだけつなぎあわせて、「これが私の社会」として提出することができる。
 こういう社会観(世界観)がいちばんくっきりでるのが「殺人事件」。ヒュー・ジャックマンのやっていることが、まさにこれ。それをアメリカ特有のヒューマニズム、人間は全員平等、いのちはみんな平等という理想で揺さぶってみる。スカーレット・ヨハンソンがそういう役回りをしている。ウディ・アレンはそのふたりのあいだで、その露骨な衝突劇(?)を小話にしてしまう道化を演じている。
 三つのアンサンブルがなかなかしゃれている。
 特に、「お話社会」という感じで、映画そのものを「小話」にしてしまう仕掛けが、この映画にはぴったりである。ベルイマンの「死神」か、「神曲」の川下りか、死人が舟に乗りながら死んだ理由を語り合う世界と、現実(?)の世界が同じ視点で描かれ(といっても、死の世界は「死に神」によってすぐに現実ではないとわかるのだが、これはたとえば「貴族」社会が家の作りや庭園によって庶民の現実とはちがうとすぐにわかるようなものにすぎないから、私は「同じ視点で描かれ」というのだが……)、そのふたつを「物語」は自在に行き来する。
 「これは映画にすぎません、お話に過ぎません」ということわりつきで、アンサンブルを楽しんでいるのである。
 こういうときは、そうですねえ、やはりイギリス貴族の感覚で映画を楽しむことが大事なのかもしれませんねえ。相手のいっていることは嘘とわかっている。わかっているけれど、その嘘を許し、嘘のなかにでてくる個人の味わいをじっくり味わう。
 嘘というのはいっしゅの「むり」、わざとする何かなのだけれど、その背伸びのなかに不思議とおもしろい味がある。この映画では、たとえばスカーレット・ヨハンソンの水着姿とか、歯並びの矯正具をつけた姿とかの「付録」、「おまけ」とか。矯正具の感じにいらいらしながら顔を動かすスカーレット・ヨハンソンってかわいいでしょ? そういう「おまけ」をばらまきながら、庶民のまま、スカーレット・ヨハンソンがイギリスの階級社会のいわばトップに侵入してばらまく庶民の動き--その身のこなしが色っぽくていいなあ。ウディ・アレンは女優を輝かせるのがとてもうまい。どんな女優もウディ・アレンの映画にでるとうまくみえる。そうしたスカーレット・ヨハンソンの魅力を楽しむための「小話」映画だね、これは。