監督マイケル・ウインターボトム 出演 アンジェリーナ・ジョリー
こんな比較のされ方はマイケル・ウインターボトムにとって不本意かもしれないが、私はどうしてもポール・グリーングラスの「ボーン・アルティメイタム」と比較して見てしまう。
「マイティ・ハート」の方が事実をもとにしたドキュメンタリーの要素が多いのだが、なぜか絵空事の「ボーン・アルティメイタム」の方がリアルに感じるのである。なぜ「マイティ・ハート」がリアルに感じられないか。リズムがのろいからである。ひとつひとつのシーンにじっくり時間をかけている。たとえばアンジェリーナ・ジョリーが夫の殺害を知らされて泣き叫ぶシーン。迫真の演技だが、長すぎる。悲しんでいる、という事実を超えて、悲しみの質まで見せようとしているからである。役者は確かにある感情の「事実」だけではなく、その感情の「深み」を表現することが求められるし、「感情」の深みを表現するのがいい役者なのかもしれない。だがその感情の「深み」をきちんと表現しようとするあまり、感情が役者の内部で完結してしまうことがある。観客の感情ではなく、役者の感情そのものになってしまうことがある。そうなると、観客は、自分の感情をどこへ持っていっていいのか、ちょっとわからなくなる。「ふーん」という気持ちになってしまうのである。この映画では、そういうことがしばしば起きる。とてもよくわかるのだが、わかってしまうと、そこで感情は終わってしまう。
「ボーン・アルティメイタム」は、そういうことがない。もとより「ボーン・アルティメイタム」は人間の感情の「深み」というものなど描こうとはしていないが、そんなものはどうでもいい、と感情の深みを捨て去ったところから、逆にいきいきした何か、どう呼んでいいのかわからない思いが沸き上がってくる。たとえば冒頭近くの駅のシーン。そこでは、ひたすら記者をうまく誘導し助けようとするボーンと、記者を、そしてボーンを射殺しようとするCIAの要員の駆け引きがあるだけなのだが、その感情を排した行動、動きが、感情ではないにもかかわらず感情になるのだ。思わず「やった、助かった」「あ、すごい」という思いを観客に植えつけていく。「やった」とか「あ、すごい」という感嘆は、愛する人間の死を悲しむ感情に比較すると「軽い」印象を与えるかもしれないが、感情にはそういう「理性的価値判断」が入り込む余地は本当はない。ただ一瞬一瞬が、あらゆる感情が対等に、ただ充実しているかどうかだけが問題なのである。ポール・グリーングラスはこのことを非常に熟知している。一瞬一瞬の感情の充実--というか、ぎっしりつまって、それ以外のことは存在しないという思いの一瞬はとても短い、ということをとてもよく知っていて、映画のリズムをその短さにあわせて組み立てていく。
ポール・グリーングラスの前作「ユナイテッド93」は結末を知らない観客はたぶんほとんどいない。テロリストに乗っ取られ、墜落し、全員が亡くなってしまうことを観客は誰もが知っている。それにもかかわらず、最期の最期の瞬間まで死ぬということが実感できない。登場人物の「生きたい」という気持ちが観客に(少なくとも私に)乗り移り、飛行機が失速し、どんどん大地が近づいてくる瞬間でさえ、これは映画なのだから、「事実」とは違って、もしかしたら飛行機は態勢を立て直し全員が助かるんじゃないのか、という気持ちにさせられるのである。緊迫した短い感情、そのたたみかけるリズムが、観客を(私を)、映画ではなく、そこで動きまわっている人間の感情そのものの動きへと引き込んでしまうのである。感情の「質」(深み)ではなく、感情は動くものであるという、その「運動」へと引き込むのである。
マイケル・ウインターボトムは人間の感情を引き止める。動いていこうとするものを引き止めることで、感情を堆積させ、その奥に深みを作り出す。その結果、重くなる。一方、ポール・グリーングラスは感情を引き止めない。思考を引き止めない。ただただ動かす。動かすことで、とまったままでは見えない何かを浮かび上がらせる。マイケル・ウインターボトムは1枚1枚の写真、その不連続の積み重ねで、物語をつくり、その不連続のあいだに「感情」では埋めることのできない「現実」というものを浮かび上がらせる。それに対して、ポール・グリーングラスは写真を連続して動かし、あたかも静止した瞬間がどこにもない、存在しているのは動くことで見えてくる一連の運動だけである--まさしく映画の動き続ける「コマ」の動きそのものの錯覚としての運動を見せ、その運動を引き起こしている感情(思考)を見せる。
マイケル・ウインターボトムにとって現実とは「静止」であり、「とどまるときの感情」(思考)なのであるが。ポール・グリーングラスにとって現実はとどまる感情(思考)はいのちを失うことなのである。マイケル・ウインターボトムの映画がパキスタンにとどまることを出発点にしているのに対して(あるいはジャーナリズムというひとつの仕事にとどまることを出発点であると同時に到達点にしているのに対し)、ポール・グリーングラスの映画は空間も異動すれば職業も捨て去る(別人になる)ことを描いているのは、まるで二人の違いを象徴するようでもある。