新井高子『タマシイ・ダンス』 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 新井高子『タマシイ・ダンス』(未知谷、2007年08月31日発行)
 「波濤を立てて」という作品の冒頭。

えぇじゃないか、えぇじゃないか、
絵ぇじゃないか、影じゃないか、
江ぇじゃないか、泳じゃないか、
エェ邪ないか、エェ蛇じゃないか、

 どこまで行けるだろうか。どこまで「えぇじゃないか」を繰り返すことができるか。なかなか難しいようである。

翳じゃないか、エェじゃ泣いか、エェじゃ亡いか、エェじゃ内科、

 後半、あたりから、ちょっとおもしろくなるが、その前に、

あなたは時代の仇花で、
わたしは時代の風花ヨ、
ともに実らぬ花ならば、
ヨーホイ、
踊らニャ、損、損、損、song……

 という行を挟んでいるのが、新井の四苦八苦ぶりをつたえていておもしろいといえばいえるかもしれないが、ちょっと残念である。余分なことばをいっさい挟まず「えぇじゃないか」の変奏だけで一篇にしてしまった方がおもしろいだろうと思う。
 新井の詩は、音にこだわっているようで、実際には視覚にこだわっているだけにすぎない。視覚を邪魔するものはない方が快感が強まると思う。
 「花粉症」という作品では、やはり後半に

放ちます、放ちます、放飛、放、放、飛飛、放放

 のあと、鏡文字、横に倒れた活字、逆さになった活字を組み合わせて、「花粉」が飛び散っている様子を視覚化している。これは、快感と言えば快感である。
 新井が楽しんで書いていることがとてもよくわかる。
 ただし、私は、こういう作品は否定はしないが、肯定もしない。
 私は保守的な人間であって、ことばは耳で聞くのが出発点だと感じている。目で見る詩、音にならない詩というのは、肉体が納得しない。私は詩の朗読はしないが、詩を読むとき、無意識のうちに喉を動かしている。頭の中で音を聞いている。長い間つづけて読むと喉が疲れるので、そのことがよくわかる。
 視力で読む詩は、その喉が疲れる快感がない。

 あるいは、私は視力が弱いので、視力で読む詩が苦手なのかもしれない。これは視力の強い人のための詩なのかもしれない。