監督 ニール・ジョーダン 出演 ジョディー・フォスター、テレンス・ハワード、ナビーン・アンドリュース、アリー・スティーンバーゲン
映画を見ながらまず思い出したのは「長江哀歌」である。ニール・ジョーダンは否定するかもしれないが、ジョディー・フォスターの演じるラジオのパーソナリティーのやっていることはジャ・ジャンクーが「長江哀歌」でやったことの焼き直しである。
日常の、人が見落としているもののなかに命のあり方を見出し、それを伝えるということ。
ジャ・ジャンクーは傷ついた存在を映像でくっきりと浮かび上がらせ、そこにいとおしさをあふれさせた。
ジョディー・フォスター(ニール・ジョーダン)は音でそれを試みようとしている。ニューヨークのさまざまな音。それをラジオで流しながら、ジョディー・フォスターが彼女独特の声で語る。低く、冷静でいながら、その奥にしっとりとした愛情を感じさせる声。たいへん美しい。ジョディー・フォスターの声の中から、ニューヨークがとても美しく浮かび上がってくる。ジョディー・フォスターの声はたいへん魅力的だが、その声の特質を最大限に生かした映画である。
映画は見るものである。視覚表現である。というのは事実だが、この映画は、映画は同時に「音」であることも伝えようとしている。聞くことの意味を、浮かび上がらせようともしている。それはジョディ・フォスターのラジオ・パーソナリティーというキャラクターのなかにも存在しているのだが、それを導入部として、この映画では、もっとそれ以上のことをも語っている。音の深み、聞くことの深みへと観客を誘ってゆく。
犯罪を追うテレンス・ハワード。彼はジョディ・フォスターの番組を聞いているという設定になっている。耳を澄ます人間である。この耳を澄ますこと--音を聞くことが事件の解決につかわれる、というのはごく普通の「伏線」だが、この映画では、それ以上のことを語っている。耳を澄ます、ひとのことばを聞く。それはひとのこころの声を聞くということなのだ。
ジョディ・フォスターが警察へ事件の捜査進捗状況を聞きにゆく。そのとき応対する警官はジョディー・フォスターのことばを聞くが、それは事務的な態度であり、親身ではない。つまり、ジョディー・フォスターのこころの声を聞いてはいない。--その対極にいるのがテレンス・ハワードなのである。テレンス・ハはワードはいつでもジョディー・フォスターのことばと同時に、その奥にあるものを聞き取ろうとしている。ことばの意味ではなく、そういうことばを語るときのこころを聞き取ろうとしている。
表面的な音(物理的な音)の背後にはその音を成り立たせるものがあり、時間があり、つまり生活がある。
テレンス・ハワードは、最後は、ジョディー・フォスターのことばを聞かない。聞こうとしない。話させない。そして、そうすることで逆にジョディー・フォスターのこころの声をしっかり受け止める。映画のクライマックスはいつでもことばをもたない。せりふがない。せりふはないが、そこにことばがあふれる。声があふれる。それは観客のことば、観客の越えてある。
テレンス・ハワードは、観客が聞くのと同じ声を聞いている。受け止めている。そしてそれを実行する。そのとき、その受け止め方が、その行動が、たぶん観客の、そうあってほしいという夢と合致する。(いわば、ハッピーエンドである。)この瞬間を、ことばは壊してはならない。だから、せりふはない。
この映画は、「聞く」ということ映画にしようとした、ちょっとかわった映画なのである。聞き逃している日常の音、聞いているのにこころに刻むことのなかった音--そこから出発して、人間のこころの声を聞き、それを受け止めるという人間まで造型を深めていくというかなり文学的な内容を、娯楽に仕立ててた、ある意味では問題作である。(問題作をつくっているという意識があるからだろうと思うが、途中には、聞くことの問題点もきちんと描いている。ジョディー・フォスターがラジオのリスナーの声を生放送で伝えるシーン。)
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この映画で、もう一つ書いておかなければならないのは、ジョディー・フォスターの復活である。「羊たちの沈黙」以降、「パニック・ルーム」にしろ「フライト・プラン」にしろジョディー・フォスターは強い女性を演じ続けた。ジョディー・フォスターが事件に巻き込まれても彼女が最後に勝ち残ることは最初からわかってしまっていて、それが映画をつまらなくしていた。この映画では、ジョディー・フォスターは問題をひとりでは解決しない。解決できない。そうしたごく普通の弱さを体現することに成功した。次の映画が楽しみである。