甲田四郎『冬の薄日の怒りうどん』 | 詩はどこにあるか

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 甲田四郎『冬の薄日の怒りうどん』(ワニ・プロダクション、2007年09月20日発行)
 読んでいてちょっと困ってしまった。ふたりの孫のことを書いている。「ジーチャン」の立場から書いている。「ジーチャン」と甲田自身で呼んでいる。そういう呼び方は一般的なのかもしれないが、「ジーチャン」ということばをつかわずに「ジーチャン」が書かれているのならまだわかるが、「ジーチャン」ということばをつかって「ジーチャン」を書いたのでは、読んでいておもしろくない。「ジーチャン」であることの「発見」がない。「ジーチャン」であることを最初から受け入れている。孫はかわいい、ということを最初から受け入れている。それでもいいのかもしれないが、孫がかわいい、かわいい、かわいい、かわいいの果てに「ジーチャン」が「ジーチャン」を通り越して、人間的にかわってゆくといいのだが、最初から最後まで孫はかわいいだけでおわっている。孫をかわいがるばっかりで、親馬鹿ならぬ「ジーチャンばか」になっている、というのでもない。「ジーチャンばか」になって、孫をスポイルしてしまうくらいだと、それはそれでとてもおもしろいのだが、そこまではいかず、奇妙に抑制がきいている。孫のかわいらしさも読んでいて、ああ、こんなにかわいくなったのか、という感じがつたわってこない。
 ひとことでいうと「過剰さ」がない。「過激さ」がない。インターネットに流布している「日記」でも、もうすこし読ませる工夫がしてある。「ばかだね」とばかにされる楽しみを書いている。

 驚きが書かれている部分を一か所見つけた。そこだけがおもしろかった。

ユリはおもちゃがほしいとなればむがむちゅう何を言っても聞こえない、店先の地べたにひっくりかえってカッテー、カッテーと大声で泣くのだと。それはしつけだぞみっともないぞと私ジーチャンは言う、(略)電話を替わったママが言う、でもあのね、ちかごろの子はすぐに何でも買ってもらって我慢ということを知らないけれど、ユリは我慢を覚えたんですよ。そんなに泣かれても買わないのかとジーチャンは驚く、買ってもらえなくてもそんなに泣くのか。たくましいママとユリ。

 「買ってもらえなくてもそんなに泣くのか。」に、初めてであった孫の姿がある。「発見」がある。そうしたことがもっと書かれていれば、孫の姿がいきいきしてくる。
 いじめられてもいじめられてもがんばる姿などは、最初から「かわいそう」「けなげ」という気持ちが表に出ていて、退屈である。