たなかみつあき「(とっくに木の鱗は……)」 | 詩はどこにあるか

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 たなかみつあき「(とっくに木の鱗は……)」(「coto」14、2007年07月27日発行)
 2連目がとてもおもしろい。

ともすれば扁平ぎみの
木の頭蓋にモノカゲを
よもや造影的にぺらぺら
植えるでも海凪ウエルカムでもなく、
小声で影、埃、海彼の切手と連呼するでもなく

 何が書いてある? わからない。けれども音がおもしろい。「植えるでも海凪ウエルカムでもなく、」は「うえるでも・うみなぎ・うえるかむ・でもなく、」と読むのだと思うけれど、音のうねりがとても不思議だ。読んだあと(私は黙読するのだが)、ちょっと声に出してみたくなる。うみなぎ、の「ぎ」は鼻濁音で読む。そうすると「な」行と美しく響きあう。
 次の行の「海彼」はどう読む? 「うみ・かれ」? たなかの意図はわからないが「うみ・かれ」と読むと「うみなぎ・うえるかむ」が短縮されたようで、なんだか笑いだしたくなる。
 たなかは耳が非常にいいのだと思う。そして、耳だけでなく目もいいのだと思う。ことばを読むとき、口蓋・のど・舌をつかうのはもちろんだが、たなかは耳をつかう。そして目もつかう。
 「木の頭蓋にモノカゲを」の「カゲ」は「造影的」「影」となって繰り返される。
 音と文字(耳と目)が、ことばのなかで繰り返され、詩が動くのである。繰り返しのなかで意味を失ない、失なうことで新しい意味を誘う。
 1、2、(途中を省略して)、最終連を引用する。

とっくに木の鱗は
なぎ
払われた
浮遊空間のその針目をどんどん詰めるには
いまや枝ぶりも葉ぶりも定かではない、

ともすれば扁平ぎみの
木の頭蓋にモノカゲを
よもや造影的にぺらぺら
植えるでも海凪ウエルカムでもなく、
小声で影、埃、海彼の切手と連呼するでもなく

(略)

釘をたてつづけにただ釘を
斜めに釘を遊離空間だからもっぱら釘を
重力散布には反れ反れ釘耳わたり、
水母の羽振りをアカペラで攪拌しつつ
地を這うようにぐるぐる釘を

 1連目の「なぎ/はらわれた」の「なぎ」は2連目の「海凪」の「凪」に、1連目の「葉ぶり」は最終連の「羽振り」に、そして2連目の「ぺらぺら」は最終連の「アカペラ」のなかで蘇る。耳と目が、ときおりちゃんと聞いているか、ちゃんと見ているか、と叱咤激励(?)される感じだ。
 最終連の「反れ反れ」は「それそれ」と囃子詞のように、耳と目をあおる。