入沢康夫『唄--遠い冬の』(書肆山田、1997年07月10日発行)。
「三保の鴎」。(谷内注・原文の「鴎」は正字体)『入沢康夫〈詩〉集成 上巻』に「序詩」として掲げられている作品である。『唄』にも再録されている。
虚空にひらりひらりと
舞ふものがあつて
それが千年もの昔の
春の女神の いたいけな
笑(ゑ)まひとも
また 見るはしから忘れ去られていく
夢の 傷口かとも思はれる
つながつてゐるのだ
どこかで--
あの
青い雲と雲とが
せはしく行き交ふあたりで--
「つながつてゐる」。この感覚が「誤読」の基本かもしれない。私たちは、私の考えていること、感じていることを、たとえば入沢のことばのなかに感じる。具体的に、明確には言えないけれど、「どこかで」「つながつてゐる」と。
この詩を再び読んだとき、私が真っ先に思いだしたのは「上巻」に収録されている作品ではなく、『漂ふ舟』の最後に掲載されていた「難破した男のララバイ」である。
こんなにも 荒れてゐるのに
こんなにも まつ暗なのに
私の
もう祈ることも忘れ果てた視界を
白く
あまりにも白く
かすめた鴎よ
本当に
おまへは鴎なのだらうか
(谷内注・原文の「鴎」は正字体)
ふたつの作品に「鴎」が登場するから混同した--というのではないと思う。ふたつの作品に書かれていることは同じなのだ。
「本当に/おまへは鴎なのだらうか」と問うとき、入沢は「鴎」以外のものを感じている。「鴎」が別の存在と「つながつてゐる」と感じている。感じているとしか言えないのは、それが視界を「かすめた」だけのものだからである。はっきりと見たわけではない。そしてはっきりとは見えなかったからこそ、「つながつてゐる」と「誤読」することもできる。
「誤読」とは何かを探すことなのだ。
そして探しているものは、いつもどこか遠くにあるように感じられるけれど、ほんとうは自分自身のなか、読者自身のなかにある。同時に、作者自身のなかにある。
「探す」という行為を通じて、作者と読者が重なり合う。
--これは、「かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩」とも重なり合う世界である。
『唄』には「かつて座亜謙什と名乗つた人への最後のエスキス」という作品もある。
つまり
ここには《私》も《あなた》ももはやない
書き出しの2行。「もはやいない」ではなく「もはやない」。この「ない」は「区別」がないということである。
その2連目。
やはや
《私》は《あなた》のことを忘れかけてゐるし
《あなた》にしてみれば
もちろん はなから《私》のことは知らない
二人を(いや三人 いや十人 いや百人を
繋ぎとめてゐた(さう信じられた)のは
あれは 緑の《楽園》へのあこがれであつたらうか
錆びた鋼の色をした《地獄》だつたらうか
そもそも それさへもが
定かだつたとは言ひ難いのだ
「区別」がない。それを「繋ぎとめてゐた」と「つなぐ」というこことばで言い直している。さらに、その「つなぐ」ものが「楽園」か「地獄」か定かではない、と。「楽園」と「地獄」は正反対のものである。しかし「つなぐ」という運動そのものにしてみれば、それは「つなぐ」という運動をするということにおいて同一である。違う存在が同じ働きをする。そのとき「誤読」が起きるのだとも言える。
「誤読」という運動が「つなぐ」ということばと同時に書かれている--そのことが、重要なのだ。
そもそも それさへもが
定かだつたとは言ひ難いのだ
けれども
《私》もなく《あなた》もないとしてみても
ここに 今
何ものかが うごめき 移動して行く
鳥影も けものの姿もない この土地で
あちこちに落ちて散らばり
ともすれば見出される
肉質の時間の破片が(そしてその臭気が)
その何ものかを導き 動かしてゐるのだ
だから
一つのことだけは変つてゐない
一つのことだけは!
「変つてゐない」のは「誤読」する精神である。「誤読」する精神が「この土地」を歩けば、そこに落ちているものは(肉質の時間の断片は)、いきいきとした時間に変わる。ことばは、いつもそういう「誤読」を待っているということだろう。