入沢康夫と「誤読」(メモ45) | 詩はどこにあるか

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 入沢康夫『漂ふ舟』(1994年)。
 「梯子」。この詩集の隠れたテーマは「梯子」である。

              働き蟻のごとき小活字に
よつて ほぼ完全に埋め尽くされた 一八〇ページたら
ずの雑誌 これをもつて俺の梯子とすることも けだし
可能なのである やつてみよう

「お食事にどうぞ」「ガリアの塩をどうぞ」
空飛ぶ蛙に曳かれた乗物のなかで開かれる異端審問
「お食事にどうぞ」
しつこいぞ おまえ
けれども
赤狩りは割にあはない

 「梯子」とはことばである。入沢自身のことばではなく、誰かが書いたことば。そのことばを書いた人の意図を分離し(ことばを、ことば自身として解放させ)、つなぎあわせてゆく。ことばを「誤読」し、動かしていく。そうすることで、今、ここにいる入沢を別の次元(梯子で結ぶ「上」か「下」か)へと連れ出す。今、こことは違う次元へ行くということが重要なのだ。そのために、ことばが必要なのだ。
 ことばは「物語」と言い換えられるときもある。

 そしてまた ここには 今ひとつの 耐えて忍ぶべき
梯子の物語……

 虚空に かつて(遠い昔)愛した 頸の長い娘の幻が
浮かび あるかなしかの薄荷の香りが あたりいちめん
に漂ひ 彼女の やさしく澄んだ音声が とぎれとぎれ
に聞えてくる 彼女のお気に入りの あの古ぼけた寓意
の織物 昏睡と彷徨の説話の かぎりない断片

--なぜ泣くのと尋ねる 人はだれもおらず……

--喉が銀色に輝く鷹を探し当てようとして……

 「物語」「寓意の織物」「説話」。それらは全て「誤読」を待っている。「誤読」されることで引き継がれ、生き延びる。
 繰り返しというか、ひとつのことば、ひとつのまとまった断片が少しずつ姿を変えて(いまの時代ならバージョンを新しくしてといいった方がわかりやすいだろうか)、次々に登場するのは入沢の作品の特徴だが、ここでも同じことが起きている。
 「梯子の物語」。

 そしてここには さらにひとつの やはり等しく耐え
て忍ぶべき梯子の物語……

 中空に一点の汚点が現れ みるみるうちにそれが広が
つて すべては闇に包まれる
 その闇の中から 今度は 声変りしてまもない十四 
五の少年の声が聞える これもまた 昏睡と彷徨の説話
の断片か?

「風は今夜も僕を追ひ越して
くるりと振りかへると
その細い躯をくの字に曲げて
けたたましく笑ふのだ
  (谷内注・原文は「汚点」に「しみ」のルビ、「躯」は旧字体、「からだ」のルビ)

 「梯子の物語」とは、「梯子」自身の登場する「物語」、「梯子」が内包する「物語」という意味ではない。「梯子」となるべき「物語」という意味である。そして、この「の」のなかに省略された形で存在する「なるべき」が重要なのである。
 ことばは、そこにあるだけでもことばである。しかし、ことばはそこにあるだけではなく、そこにあることをやめて別の形で(といっても形を変えず、ことば自身はそっくりそのままで)存在することができる。「誤読」を受け入れ、それまでと違った意味を担うことができる。
 そして、

 さうだ あれだ ギャングウェイ・ラッダー(まさし
くこれは梯子そのもの)の日暮だ 横浜大桟橋のどしや
ぶりの雨だ 沖に船がかりしてゐた軍用輸送船団だ と
思ふ間もあらばこそ 場面が変る

 「場面が変る」。そのための「梯子」。「梯子」は場面を変えるための手段である。「場面」が「かわる」ことを、かえることを入沢は望んでいる。そういう力をことばに求めている。ことばは、何かを伝えるためのものではない。むしろ、祈り、何かを引き寄せるためのものなのだ。

 この詩集は「わが地獄くだり」というサブタイトルを持っている。この詩集は入沢の体験した「地獄」を伝えるというよりは、「地獄」を引き寄せる詩集なのである。体験とは入沢にとって、ことばをつかってある事実を引き寄せることなのである。

 来た! それは思ひもまうけぬ 西南の方角からやつ
て来た

 と入沢は「到来」で書いていたが、それは「やつて来た!」のではない。呼びよせたのだ。ことばが「事実」を引き寄せる。これは詩人にとって至福である。ことばが、夢想が現実になるからだ。一方、苦悩でもある。夢想は楽しい夢想ばかりではない。人間は苦しく悲しいことも夢想してしまう。そういうものも、ことばは引き寄せてしまう。