水嶋きょうこ「砂猫」 | 詩はどこにあるか

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 水嶋きょうこ「砂猫」(「ひょうたん」32、2007年05月20日発行。)

 実はね。見えるんですよ。何がって。猫が。いや、ふつうの猫じゃない。砂猫です。

 読み進んでも「砂猫」が何であるかはわからない。というか、水嶋が「砂猫」と呼んでいるものでしかない。そして、この「しかないもの」でありつづけるところが、この作品の一番いいところだ。
 天沢退二郎の感想で書いた「Xレベルの尺度」という表現をここでもつかえば、「Xレベルの尺度」がかわらない。テレビを見ている。コンビニへ行く。電車に乗る。水嶋は(というべきか、作品のなかの主人公はというべきか……)動いていくのだが、どこへ動いていっても「Xレベルの尺度」がかわらない。
 水嶋の「Xレベルの尺度」は、別のことばで言えば、「見覚えのある」ということかもしれない。電車のなかでの描写。

 やつだ。やつは、目の前に座っている。自分をすくっと睨みつけている。形かえ、女みたいに科作ってこっち見ている。それが、見覚えのある顔で。かかわった女たちをいろいろと思いだすけど、でもどの女かわかんない。砂猫は、急に立ち上がり、こっちを艶かしい目つきで見ながら、ついてこいって言うようにどんどん車両を歩いていく。

 「見覚えがある」、しかし、明確にはそれが誰かわからない。この距離感が最初から最後までつづいている。「見覚えのある」ものが動くと、その移動にあわせて水嶋も動く。砂猫の目に誘われるようについていってしまう。
 「見覚えがある」というのは、それが何かはっきりわからないがゆえに、それを知りたいという気持ちにさせられる。この不思議な気持ちを、水嶋は

なんだか切なくなってきてね。人恋しくなってきてね。

いとおしくて、いとおしくて、

 ということばで言い直している。
 「砂猫」は最初は唐突にあらわれ、水嶋をびっくりさせる。びっくりして追い払ってしまうが、またあらわれる。そういうことをくりかえしているうちに、だんだん気持ちがかわってくる。自分の気持ちがわかってくる。
 「砂猫」はどこからか唐突にやってきたのではない。水嶋自身が呼びよせたのだ、と。なんだか切なくて、人恋しくて、何かがいとおしくて、いとおしくてたまらない気持ち--その不安定な気持ちが「砂猫」を呼びよせたのだ。水嶋は、いま、切なくて、人恋しくて、何かがいとおしいのに、その何かが目の前に明確な形で存在しないという状態なのだと、水嶋自身を発見する。
 そして、その「発見した気持ち」そのものも、実は、切なくて、人恋しくて、いとおしいようなものなのだ。だからこそ、

 実はね。見えるんですよ。何がって。猫が。いや、ふつうの猫じゃない。砂猫です。

と、少しずつ、反応を確かめるようにして接近し、語りかける。「気持ち」の反応次第では、いつでも話を中断できるように、ことばを区切る。倒置法もつかう。--語法というべきか、語り口というべきか、そういう文体と内容が緊密に結びついた美しい作品だ。