「Xレベルの尺度」。あまりにあいまいすぎるだろうか。しかし、これは「X」のままにしておくしかない。「Xレベル」には理由などないのである。
「黄色くずし」に、その「理由がない」ということばがでてくる。
うるさいなあ
いいかい
とにかく
とつぜん黄八丈がいなないた
「フィーヒ フィーヒ フィーヒ」
すると すかさず黄水仙老爺が
「ふん、黄じるしめが」
とつぶやいた
それをききとがめた黄蜂が
「おれは黄色くなんかない」
と抗議した
どこにも いなないた理由(わけ)なんて
入り込むすきがないだろうが!
「理由がない」というよりも、「理由」が「はいりこむすきがない」。あるのはただ緊密なつながりだけである。「黄八丈」(八丈絹か何か、黄色い八丈絹のことだろうか)、「黄水仙」「黄じるし」「黄蜂」とつづく「黄」の文字のつながり。その緊密さ。そこに「いなないた」「わけ」を持ち込むと「黄」の関係が乱れてしまう。そういう乱れを拒絶して、ひたすらことばの統一を狙って加速する--というのが天沢のことばである。
あれ? でも「キ印」の「キ」って「黄」じゃないよね。
だが、「キ印」の「キ」を「黄」と書くことで、統一と、そしてその統一が隠しているゆがみがくっきり見えてくる。隠しながら、何かをみせる。何が見える? と聞きながら、天沢はことばを動かし続け、ついて来れるかい、と読者を誘っている。
「黄じるし」って、何だろう。
ここでは、たぶん天沢は「キ印」ということばをつかいたかったのだ。ところが、今の時代は「キ印」ということばを好まない。差別的だからである。侮蔑的だからである。そこで「黄じるし」。しかも前後に「黄八丈」「黄水仙」「黄蜂」。「きじるし」は「黄」にまみれて、ニュートラルなことばになる。どこにも属さない「自由」なことばになる。その「自由」を支える語り口、「きじるし」さえもこんなふうにつかってしまえるという語り口--語り口の奥にあるものこそ「Xレベルの尺度」というものである。ことばをあくまで自由に解放しようという願いの強さの「レベル」が、そこにあらわれている。
「Xレベル」の「X」は語り口にあらわれてくる。ことばをあくまで自由にしたいという強い欲望と、その強い欲望が引き起こす毒々しい笑い。その艶。
「笑い」に「理由」なんかいらない。「理由」のある「笑い」、「理由」が入り込んでくるすきのあることばは「笑い」ではない。
「理由」を拒絶して、疾走することば、そのスピードの「レベル」、つまり「速度」がつくりだす一種の快感(麻薬)のようなものが、天沢のことばの魅力なのである。
そして、この駆け抜けることばには「キ印」(黄じるし)のように、ふいに、現実も顔をのぞかせる。私たちのこころの奥底に存在する意識、抑圧されている意識をふいにすくい上げる。
どんなことばも現実に根差している。それは天沢のことばも例外ではない、というところに、またこの詩のおもしろさがある。
同じ「黄色くずし」の「2」の部分。
六神丸は多神教で
一心多助は一神教
ところが一味唐辛子と
七味唐辛子の戦争になって
共食いで下痢に終ったのはオソマツで
やっぱり原理主義はこわいなと
十間(けん)道路を非武装化したがやな
それで世田谷街道は
いまはただいちめん十字花(ナタネ)ばたけ
豚骨峠までつづいておるわい
(谷内注・「下痢」と「原理」には原文は傍点がついている。)
「一心多助」を「多」をつかって書く遊びが「多神教」と「一神教」を引き寄せ、さらに「一心」と「一神」がからみつくおもしろさ。「一味」「七味」のことばの、音の近さ。「したがや(な)」と「世田谷」の舌を噛みそうなことばあそび。さらには「いちめんのなのはな」ならぬ「いちめんの十字花(ナタネ)ばたけ」という、わざとずらしたパロディー、「とんこつ」「とうげ」という遊びへの逆戻り……。そうしたことば遊びの滑らかさのあいだに、ふいに顔を出す「原理主義はこわい」という本音。(原理主義では下痢をおこしてしまうという「傍点」による暗示。)その顔の出させ方が「黄じるし」と同じなのである。「同じXレベルの尺度」でことばが選ばれ、ことばが駆け抜ける。
「キ印」ということばをつかってはいけないという「原理主義」はこわいぞ。
そんなことばにならないことばが、天沢の詩のことばといっしょに(あるいは、それよりもっと速く)、駆け抜けていく。このスピード感。スピード感の陶酔。その陶酔の「レベル」を一定にする「尺度」--そういものとしての「語り口」(話法)が天沢には確立されている。
描かれている対象、ことば、天沢--その三つの関係が、三つの存在の「距離感」(尺度)が一定である。「Xレベル」がいつも守られている。この安定感が天沢の詩である。天沢は次々に新しい詩を書きながら「こんなXレベル」がありますよ、こんな尺度がありますよ、と様々な「レベルの尺度」の展覧会をやっているのである。