山川久三「ベランダ」、豊原清明「人生の青い中也よ」 | 詩はどこにあるか

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 山川久三「ベランダ」、豊原清明「人生の青い中也よ」(「SPACE」3、2007年07月01日発行)。
 山川久三「ベランダ」。
 ギリシャ悲劇と現実が交錯する。そこから乾いた笑いがひろがる。

オイディプスが ベランダに
うずくまって タバコを喫すと
オリュンポスの方から寄せる風が
何倍もの咳の発作で報復する
犯してきた罪を責めるように
放浪の脚を支えた力は
たるんだ皮膚の どこにも
見あたらない

乾いたアンティゴネの靴音を
研ぎすまされた聴覚がとらえる
歩道を重くたく刻んでくる踵(かかと)

ショルダーバッグを投げ出すと
アンティゴネは 父であり兄である
老人を 風呂場へいざなう
ほつれ髪をかきあげる娘の二の腕を
つかむことが このごろ
老人の一日を支えている
母と娘の二の腕が
豊かな肉づきで似てくる不思議

 山川はもちろん「オイディプス」ではない。しかし、自身を「オイディプス」に重ねるとき、重なる部分もあるのだ。老いは「オイディプス」の「オイ」である、というのは冗談だが、自分ひとりでではどうすることもできない肉体がオイディプスを引き寄せる。それにつられてアンティゴネも呼び出される。その交錯が楽しい。
 「放浪の脚を支えた力」から「老人の一日を支えている」までの、「支える」ということばでカッティングされた日常が、すばやいスケッチで無駄がない。余分な抒情がない。その乾いた感じが悲劇を喜劇にしている。悲劇と喜劇は、とても似ている。ともに対象を対象としてみつめる客観力無しには成り立たない点が。山川は、ここでは彼自身を客観化している。そこにもちろん抒情が入り込むことはできるのだが、山川はそれを拒絶している。そのさっぱりした精神の運動--ああ、これが山川を「支えてきた」脚力、ことばの脚力なのだと思った。



 豊原清明「人生の青い中也よ」。
 豊原は俳句を書いているが、俳句の視力が詩のなかにも登場してきて、それがことばをひきしめる。

ゆっくり蛇行して、
体全体ツキの色と成す。
青洟垂らして、生命を悟る。
青い詩人は風の只中に生きて、
くさった網戸を開き、
(中也の人生は、難しい。)
青い首を凝って、緊張している。

 「ゆっくり蛇行して、/体全体ツキの色と成す。」のスピード感が俳句そのもの。また「くさった網戸」から始まる諧謔がとてもうれしい。くさった網戸を開くのは難しいよなあ、と不思議な肉体の記憶がよみがえり、その記憶が中也と重なってしまう。私は中也の愛読者ではないので、中也のことはほとんど知らないが、あ、たしかに中也にはくさった網戸を前にして苦戦しているようなどうしようもないところがあるなあ、と思ってしまう。豊原の詩を読むと、だれの解説を読んだときよりも中也が身近に感じられる。何か遠いものを一気に引き寄せ、世界の中心にし、その中心から世界へもう一度ひろがってゆく--そういう一元論としての俳句の力がどこかに潜んでいる。豊原のことばには。