蜷川幸雄演出「十二夜」(博多座、2007年06月10日公演・昼の部)。
演出 蜷川幸雄 出演 尾上菊之助 尾上菊五郎 中村錦之助 中村時蔵
幕が開くと、鏡。舞台一面の鏡。客席が映る。ケレンたっぷりの幕開きである。
この鏡はどういう仕組みになっているか知らないが、背後に光があると綾のように透けて見える。舞台のおもしろさは色々あるが、蜷川演出の「十二夜」は、ケレンたっぷりな「鏡」こそ主役といえる。
最初から、そういうシーンで始まる。鏡の内部(?)、舞台の板の上に光が降り注ぐと、鏡が半透明になり、満開の桜。チェンバロと鼓の音楽。シェークスピアと歌舞伎が一瞬のうちに出会い、融合する。その、冒頭の侯爵のなげきのシーン。美しいそのなげきの背後にもまた鏡があり、役者の背中を映し出している。
鏡。鏡。鏡。いっときも消えない鏡。
鏡は人を映す。人は鏡に映った姿を見て、自分を確認する。そのとき鏡とは? 相手の姿を映し、相手そのものになっているけれど、その相手の姿は鏡自体ではない。鏡とどこにいる?
この不思議なテーマは、侯爵とヴァイオラが恋について語るシーンで鮮明になる。ヴィオラは侯爵と同様の思いを抱いている女がいるのを知っている、と語る。侯爵は、女にはこんな激しい恋は耐えられないと反論する。このやりとりは、互いのことばを「鏡」として、そこに己を映し、これが「私」であると主張する。あるいは、相手のことばは「私」を映し出す「鏡」であると主張する。「私」と「鏡」は区別がつかなくなる。「私」がいなければ「鏡」が存在しないのか、「鏡」がなければ「私」が確認できないのか。そして、鏡の朱泥は実は女が男を演じている、男のなかに女がいるという「構造」そのものとして、全体を乱反射させる。
鏡。鏡。鏡。本物の鏡。偽物の鏡。
オリヴィアの偽のラブレターに狂うマルヴォーリオ。偽の鏡が映し出した偽のマルヴォーリオを自分と勘違いする。そして偽の自分の姿にあわせて現実の自分を変えていく。悪趣味な服装に身を包み得意になっていく。
姿を見るとき心が見えず、心を見るとき姿が消える。
侯爵が男装したヴィオラを見るとき、侯爵にはヴィオラの心が見えない。しかし、ヴィオラの心を見るとき(ことばを聞くとき)、男装は消える。純粋に心が立ち上がってくる。男のものでも、女のものでもない心。恋する心が立ち上がってくる。
肉体の内部、朱泥で隠した内部が、朱泥を破って姿をあらわすとき、恋は成就する。
ヴィオレットが男装した女であることを明らかにしたとき、すべてが完結する。朱泥を燃やして燃え盛る恋の炎。それは、舞台の上の偽りの鏡の内部に満ち溢れてくる強い光のように、鏡を内部から砕いてゆく。真実が動きだす。
肉体と舞台が二重構造になって、展開してゆく。
回り舞台を多用し、場面の切り替えは、まるで真実の裏側はこうなっている--という世界の構造を浮き彫りにするように転換する。芝居を見るというより、蜷川の演出、それも装置をつかった演出を見る、という感じの歌舞伎だった。
一方、菊之助は思いの外、透明感がなかった。男と女の区別が前面に出ていて、それがこの芝居を物足りないものにしていた。男を演じながら、ある瞬間、女の反応が出る。それがことばの論理としてだけではなく、声の調子、体の動きという演技として表現される。(これは蜷川の演出かもしれないが。)その部分が、ちょっとつまらない。ことばのなかで、男と女の区別が透明になって消えて行き、その瞬間に恋が恋になる--というシェークスピアの人間観察力が強くでた部分が菊之助によって不透明になってしまった、という印象が残る。
侯爵に反論するとき、あるいは侯爵のことばに驚くとき、「女」を出さず(女の声にもどったり、なよっとした姿勢をとったりするのではなく)、あくまで「男」でとおしてしまった方が、「女」の純粋さが出たのではないだろうか。「背伸び」する苦悩、つらさのなかに、純粋な恋が浮かび上がったのではないだろうか。
芝居なんて、嘘。舞台なんて、嘘。そういう嘘を、嘘と知っているからこそ、背伸びして嘘を生きる。嘘を通す。その瞬間、無理をして背伸びをしたどこからか、ほんとうのこころがこぼれ出る--そういう部分を「鏡」として、観客は自分自身の恋を映してみたいのではないだろうか。観客の恋を映し出すほどまでに、磨かれた演技とはいえないと感じた。