入沢康夫と「誤読」(メモ32) | 詩はどこにあるか

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 入沢康夫『駱駝譜』(1981年)。
 入沢の詩集はどれも作為に満ちているが、この詩集も作為に満ちている。作為こそが「詩」である、と入沢が考えているからだろう。

  「泡尻鴎斎といふ男」(谷内注・「鴎斎」は原文は正字体)には「泡尻鴎斎」が「第一号」から「第七号」まで書かれているが、それが最後ではない。

 また、泡尻鴎斎といふ乞食がゐた。四辻で逆立ちをし
たまま、一しきりゲロを吐き出して死んだ。これが泡尻
鴎斎第七号なのだが、……

 それにしても、このゲロの中にだつて逆立ちした泡尻
鴎斎ののつぴきならなぬ真実の何がしかはあるのさ、と、
龍髭の葉陰で、今は亡き泡尻鴎斎第何号かが、未だ世
に出ぬ泡尻鴎斎第何号かに、訳知り顔で言ひきかせる。
     (谷内注・ルビ「乞食」に「ほいと」
            「龍髭」に「りゅうのひげ」
            「未だ」の「未」に「いま」
          字体「辻」は正字体
          傍点「このゲロ」の「この」
            「何がしか」の全文字)

 あらゆる人間が「泡尻鴎斎」である。そしてあらゆる人間が「泡尻鴎斎」である理由は、どんなものにも「真実の何がしか」があるからだ。しかし、「何がしか」というだけで、具体的には何も言わない。この特定しないことが「誤読」をひきだす。誤読」を誘う。特定されていないから、人は(読者は)、そこに何を見出してもいい。
 そして、その真実が「ゲロのなかにも真実がある」という「入れ子構造」でもかまわない。というより、そういう「入れ子構造」こそが、この場合唯一の真実かもしれない。
 その証拠は、「このゲロ」の「この」の傍点である。「この」という特定。「ゲロ」というものは誰でも吐く。誰でも吐くけれど「この」ゲロは特定されている。「泡尻鴎斎第七号」が吐いたものである。それも逆立ちをして吐いたものである。
 何を特定してゆくか、つまり何に目を向けてゆくかということだけが、「真実」と「誤読」にとっての問題なのである。

 第1連は「むかし、泡尻鴎斎といふ儒者がゐた。」で始まる。その後、泡尻鴎斎の職業(?)は変遷し、同時に、その人物の描写も変遷する。その変遷を貫いてかわらぬものがあり、そのひとつは「泡尻鴎斎」という名前。もうひとつが「泡尻鴎斎」は全員死ぬということ。死ぬことによって「第二号」「第三号」と引き継がれてゆく。
 というより、新しい「泡尻鴎斎」が勝手に「過去」を「第七号」「第六号」と逆につくりだしてゆくのだ。
 最後の「今は亡き泡尻鴎斎第何号かが、未だ世に出ぬ泡尻鴎斎第何号かに、訳知り顔で言ひきかせる。」(改行を無視して引用)は、こうした「構造」を語って、象徴的である。ここに描かれていることは、現実には絶対不可能なことである。死んでしまった人間が生まれる前の人間に何かを語り継ぐということは現実にはありえない。ところが、ことばのうえではそういうことが可能であり、それだけではなく、そのことばに対して「何がしか」の意味づけをすることもできるのである。いま、私がしたように。
 この「意味づけ」が「誤読」である。「誤読」は「誤読」したいから「誤読」という形をとって動く。
 現実にはありえない、と切って捨ててしまえば、現実には何の問題もない。しかし、そう批判してしまうと、ではなぜ入沢がそういう世界を描いたのかということについては、何の答えも出せない。それはそれでもいいのだけれど、人間は、ひとの行動(ことば)に対して何らかの「理由」(思い)を見出して安心したいものである。自分との接点を、たとえそれが自分にできないことではあっても、その接点を求めたいものなのだ。そして、そこから「誤読」が始まるのだ。

 「誤読」は古いことばになるが「自分探し」の方法なのだ。
 ひとは誰でも、ことばを読むとき、そのことばのなかに自分自身を探したいから読むのだ。自分のなかにあって、まだことばにならない自分--それを掬い出してくれることばをひとは求める。

 (これは、作者自身についても言えることかもしれない。--これは『漂ふ舟』のための、メモとして書いておく。)