内田良介『アルカディアの木』 | 詩はどこにあるか

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 内田良介『アルカディアの木』(七月堂、2007年03月28日発行)。
 「あとがき」の文章が美しい。車のフロントガラスに衝突してきた鷺を描いている。

鷺はゆっくりと頭をめぐらせ、ぼくを一瞥した。それは不思議な眼だった。一切の余剰をそぎ落とし、生き続けることにのみ費やされてきた、ある尊厳さを湛えていた。(略)しばらく辺りを見回したのちに、すっとそらに舞い上がっていった。どんな感慨も湧かないほど一瞬のことであった。

 「どんな感慨も湧かない」。空白を空白のまま残す清潔さが光っている。気に入って、三度読み直した。

 この「あとがき」に通じる世界が「異端の頌歌(ほめうた)」のなかに出てくる。

あなたは一斉に立ち上がり
すべての内に生きて動いている
一本の弦を過去から未来に向かってふるわせる
そしてぼくのなかからあなたを目覚めさせる

こうしてぼくらは出会い
幻の主客は消える

 「主客は消える」。この瞬間の美しさ。「一」は「多」のなかにあり、「多」は「一」である。そして「多」は「他」であり、「他」との一期一会のなかで、「我」は「他」に目覚めさせられる形で「我」に出会う。「他」に出会うことは「我」に出会うことである。
 この瞬間「感慨」はたしかにあるのだが、それはことばにならない。
 ことばにならないものは、ことばにしない。それでは文学にならない、という批判もあるかもしれないが、ことばにならない感慨をことばにしないまま、大事に抱き締めるということも大切なことだろうと思う。
 今はことばにならないが、いつか、別の機会に、別の「一期一会」の瞬間に、今の「一期一会」が重なり、その瞬間に思いもかけなかったとこばとして浮かび上がってくるかもしれない。そのときまで待ってもかまわないのだ。そういう「待つ力」を、「どんな感慨も湧かない」ということばに感じた。出会いを大切にする力を感じた。