アンソニー・ミンゲラ監督「こわれゆく世界の中で」 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

監督 アンソニー・ミンゲラ 出演 ジュード・ロウ、ジュリエット・ビノシュ、ロビン・ライト・ペン、ラフィ・ガヴロン

 ジュリエット・ビノシュにただただみとれてしまう。途中まで出て来ないので、なんだかまだるっこしいがジュリエット・ビノシュが出て来たとたんにスクリーンに奥行きが出る。空間の奥行きではなく、時間の奥行きである。映画や芝居は小説と違って「説明」がない。登場人物はそれぞれ過去を背負っている。小説は、それをことばで「説明」ができる。この映画の場合なら、ジュリエット・ビノシュは実はボスニアの難民であって、国を脱出するとき、こんな苦労をしたと「説明」ができる。ところが映画では、そういうことは「せりふ」でやらなければならない。しかも「会話」として自然な形でおこなわなければならない。当然、そこには「ことば」にはできないこともあるわけで、そのことばにできない部分(ことばにしたくない部分)をどうやって肉体で表現するか。ジュリエット・ビノシュはそのこと、ことばにしたくない部分を肉体でつたえること、過去を肉体そのものでつたえることに長けている。
 肉体といってもいろいろある。目の色(輝き)の変化。顔の「はり」と「かげり」の対比。また、着ている洋服、下着……。その着こなし。肌へのなじませ方。そういうものもジュリエット・ビノシュは巧みだが、他の女優と違った肉体がある。
 映画の途中でジュード・ロウがジュリエット・ビノシュの顔について「唇を目をつむってでも描ける」というようなことを言う。ジュリエット・ビノシュはたしかに唇で語るのだ。ことばにならない声、ことばを求めて無意識に動く唇の形--そういうものを感じさせる。目が人間の顔をつくるのはよく言われることだが、それに加えて、ジュリエット・ビノシュは唇が語る。こころが、唇までかけのぼってきて、そしてことばを発することなく引き返してゆく。ジュリエット・ビノシュの唇は、声を出すための「道具」ではなく、こころを浮かび上がらせる何かだ。
 脚本家が発見したのか、監督が発見したのか、いずれにしろ映画をつくっている誰かがジュリエット・ビノシュの唇を発見し、それをスクリーンに映像とことばで定着させた。そのことを確認するだけでも、この映画は見る価値がある。