長田典子「また来てね」 | 詩はどこにあるか

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長田典子「また来てね」(「KO.KO.DAYS」1、2007年04月15日発行)。

今日はあたしの誕生日だそしてあたしを好きだと言ってくれる男が横にいる
いっしょにケーキの上のホワイトチョコをつまんで食べようとしたところで続きが思いつかずにからだを起こして冷たい窓におでこをあてて下を見る

 「続きが思いつかずに」。
 ふいに挿入されたそのことばの前で私は立ち止まってしまった。
 長田のこの作品は、豪華なホテルの部屋(67階)で過ごす時間を描いている。長田は、そこで次のようなことを考えていた。そして、そこにも「続きが思いつかずに」に似たことばがあった。

誰かとここに来てみたいような気がしてこの部屋を予約したのだけれどその誰かが思い浮かばないたとえば係長とか同期の子とかバイトの学生とか好みの俳優にどこか似ている男の顔を思い浮かべてみるけれど
んなわけないじゃんと声に出して笑ってしまう
あたしを抱く男たちはあたしのためにこんな高いホテルを絶対に予約しないのは分かっているしあたしだってただ気持ちよければいいんだからこんなところでやろうなんてハナから考えやしない

 「思い浮かばない」。「思い浮かばない」からこそ無理やり「思い浮かべてみる」。そして即座に、「思い浮かべ」たことを「んなわけないじゃんと声に出して笑ってしまう」。さまざまなことを思い浮かべながら、長田は「ほんとうの思い」を探していることがわかる。「ほんとうの自分」を探していることがわかる。
 だからこそ、ここでは引用しないが、たとえば浴槽に落ちた幼児の思い出を、その浴槽の中からみた光の記憶といっしょに語ったりもする。孤独。世界から孤立してしまっている記憶そのものを抱き締めるように。
 長田は、長田自身が幼児の記憶を呼び起こし、呼び起こすことで、その記憶のそばにいるように、その記憶といっしょの時間を過ごすようにして、この日、誰かといっしょにいたかった。そう願っている。
 そうした思いを、「文章」としてととのえられた形になるまえのことばで追い続ける。しかし、突然、

続きが思いつかず

 現実に引き戻される。続きが思いつかないときは、どうするのか。長田は、もう一度最初から考え直す。自分を探しはじめる。

いっしょにケーキの上のホワイトチョコをつまんで食べようとしたところで続きが思いつかずにからだを起こして冷たい窓におでこをあてて下を見る
誘われるといつも好きでもない男とやってしまうセックスが気持ちいいからじゃなくて温かい腕に抱きしめられて今この人はあたしを本当に愛してくれているんだと思える感じが好きなんだ

 往復する。「思い浮かべる」と「思いを探る(思いの深み、思いの奥を探る)」を往復する。「思い浮かべる」が自分をありえない世界へ自己を解放するのに対し、「思いを探る」は自分のこれまでの体験、記憶をたどることで、ありえない世界へ行ってしまった自己を、今、ここへ引き戻すことかもしれない。「ほんとうの自分」を探すとは、遠くへ行ってしまった自分を、今、ここへと引き戻すことかもしれない。
 浴槽に落ちた自分を思い出すようにして、男といっしょだった自分を思い出し、そのそばに寄り添い、昔の自分から、自分の声を聞き出す。「温かい腕に抱きしめられて今この人はあたしを本当に愛してくれているんだと思える感じが好きなんだ」という自分をすくい上げる。そうやって自分に帰る。

また来てね
ホワイトチョコをいっしょに食べた男が言ってくれた気がして振り向く

 「また来てね」の「また」。「また」は往復に通じる。
 長田は「また」をこそ実感したいと思っているのだろう。往復、繰り返し、そういうことのなかでたしかになってゆくものがある。「また」を手に入れて、長田は、自分へ帰る。そうして実際にひとりでホテルの部屋を出て行く。

 これが長田の「続き」の続け方である。

 詩作品としてはすっきりしていない。きのう読んだ渡辺玄英「セカイが終わりに近づくと」に比べると、渡辺の作品がことばがことばとして独立し、すっきりしているのに対し、長田のことばはことばになる前の躓きをたくさんかかえている。だが、その躓きのひとつひとつが、今つまずかなければならないという不思議な不気味さをもっている。正直さをもっている。躓いて、そこから立ち上がる不格好さと痛さのようなものが、躓いてすり切れた膝の傷のように見え隠れして、思わず立ち止まってしまう。

 この「続き」をずっと「続け」て欲しいと思う。奇妙ないい方になるが、「続きが思いつかず」をずっと丁寧に書き続けてほしいと思う。