安英晶「水族館」、小杉元一「レクイエム」 | 詩はどこにあるか

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 安英晶「水族館」、小杉元一「レクイエム」(「ESO」12、2007年04月30日)。
 安英晶「水族館」。
 水族館で安英は魚ではなく水と向き合う。そしてその水が安英の体内の水と呼応する。

体内の水面はるか
花が散る はながちる
みずのなかを散るはなびら
さ く ら
  (の/遺伝子 の

静寂)

 「花が散る はながちる」。意味が文字に分解し、散っていく幻想が美しい。「はな」はさらに「さ」「く」「ら」と一文字ずつに分解し、散り、意味を幻想にしてしまう。その散る(下降)の動きの反作用のようにして「遺伝子」が浮かび上がってくる。

  (の/遺伝子 の

静寂)

 この部分の( )の使い方、/の使い方、1行の空白の取り方がとても美しい。「静寂」ということばを呼び出す間も、とてもいい。
 抒情詩はいいものだなあ、と、ふと思った。



 小杉元一「レクイエム」。
 書かれている状況がよくわからない。何が書いてあるのかわからないけれど、次の1行がとても印象的だ。

耳は水にほどけてゆく

 しきりに水を思いだしている。目でも指でもなく、耳が水を思いだしている。それは水の音であり、その水へとつながる様々な音でもある。
 この「音」は安英の感じた「静寂」と、どこかで通じ合っているのだろうか。