お母さんが私を生んだのは四十二歳のときだった。明治四十五年(一九一二年)四月二二日。
何気ない書き出しのようだが、私は驚いてしまった。母について書いている。母をどう呼ぶか。面と向かっているときは確かに「お母さん」だろう。しかし書くとなると、お母さんとは書かない。少なくとも私は書かない。
生年月日から計算すると新藤は九十五歳だ。
小学生の作文なら「お母さん」と書いてしまうこともあるだろうけれど、普通は「お母さん」とは書かないだろう。文筆をなりわいとしている人間はこんなふうには書かないだろう。
そう思いながらも、読み進むと、この「お母さん」は「お母さん」としかいいようがないことに気がつく。
母乳で育った。毎夜寝るとき、お母さんの胸をひらいて乳房をしゃぶった。小学校へ上がるまでそうしたので、お母さんの乳房はしなびていたが、胸をひらくと甘酸っぱい匂(にお)いがぷうんとおそってきて、なんとも言えないいい気持ちだった。
書き写しながら、私は酔ってしまったような気分になった。
ここには「母」はいない。「母」と言うときに、こころのなかに忍び込んでくる「間」がない。「距離」がない。ここにあるのは一体感だ。「お母さん」と新藤が一体になった世界がある。その一体感のなかで、新藤は消える。(「お母さん」ではなくて、「母」と書くのが大人の男の文章だ、というような、うるさい意識はない。)新藤は「お母さん」の愛のなかに消える。「お母さん」は新藤を愛して、その存在をすべて受け入れている。その愛のなかで、新藤ははじめて新藤としてよみがえる。
「お母さんの乳房はしなびていたが、胸をひらくと甘酸っぱい匂いがぷうんとおそってきて、なんとも言えないいい気持ちだった。」--これは事実かどうかはわからない。ほんとうに甘酸っぱい匂いがおそってきたかどうかはわからない。しかし、新藤は、ずーっと長い間、そう信じてきたし、いまも信じている。
ここに書かれているのは「事実」ではなく、新藤が信じてきたことがらである。「お母さん」ということばには、新藤の信頼がこめられている。
誰も、この「お母さん」と新藤の一体感を切り離すことはできない。
田の株を起こす描写も美しいが、一回目の、最後の文章も美しい。
わがままに育ったわたしは、お母さんを、蹴(け)ったり叩(たた)いたりしたが、お母さんは微笑(ほほえ)んで「カネさん、大きくなったらなんになるんの」。わたしをさん付けで呼んだ。
ああ、お母さん。
わたしは辛いことに出会うたびに、お母さんのことを思い出す。
何度も繰り返される「お母さん」。「お母さん」と書く度に、新藤は「お母さん」といっしょに生きている。新藤は「お母さん」を「思い出す」のではなく、いっしょに生きるのだ。「お母さん」が生きた時間(やるべきことをやっただけ、という時間)をいっしょに生きる。あるいは「お母さん」の生きる強さにすがって、ついてゆくのだ、というべきだろうか。
新藤は「お母さん」の腰にぶら下がっているかのように生きてきたので、姉たちから「腰巾着」と呼ばれたと書いているが、「お母さん」が亡くなったあとも、あいかわらず「腰巾着」として生きており、「腰巾着」でいられることが、たぶん新藤の力なのだ。
こんなふうに全身をかけて人を信じるというのは大変な力だ。