あの人の墓だとい
う みんなが言うのだ あたしは それはうそだとすぐ
判つたが だまされたふりをせねばならぬ
こに書かれているのはひとつの「神話」である。ある男(あの人)がいて、その男が死んでしまった。その男のことを「あたし」は思っている。思い出している。
その途中に出てくる行である。
嘘と分かって、それでも嘘を明らかにしない。逆にその嘘に身をまかせる。嘘には嘘を成り立たせるための「思い」がある。その思いを共有する。人と(みんなと)思いを共有することが、それが真実であるかどうかよりも重要なのである。「神話」とは事実を語り継ぐというよりも、その「時」を生きたひとの共有する「思い」を語り継ぐものなのだ。
「事実」そのものではない、ということに的を絞って、「神話」を「誤読」された「時間」と読み替えることができる。同時にひとびとによって共有された「思い」と読み替えることもできる。
そういう「神話」の中で、何が起きているか。
海が陸地になり 陸地が海になり お
れはおれになり またおれが出来る
「神話」のなかでおれはおれに「なる」。ひとびとの「思い」、「共有された思い」のなかで、おれはおれに「なる」。「思い」のなかでは生成が起きている。人はただ「男」を受け入れるのではない。そこに「思い」を託し、ことばにする。「男」を変形させる。「男」であって、「男」ではないものにしてしまう。
「またおれが出来る」の「出来る」は「誕生する」(発生する)と同じ意味である。
そして、この誕生には必ず死がついてまわっている。
いま引用した行に先立つ断章の書き出し。
おもが死んだのは 今度がはじめてなのではない
「男」は何度で死んでいる。死ぬことによって、ひとびとに語られ、その語りの中で、人々の「思い」を代弁するものへと変形させられる。「男」はおれに「なる」。語られるたびに、「またおれが出来る」。
「誤読」は単に「誤読」のまま存在するのではない。「誤読」され、語られなおし、語り継がれる。そして、「ことば」になるのだ。
「誤読」から「ことば」へ。--そこに、たぶん入沢の「夢」がある。