「Ce jour-la」。(谷内注・原文にはアクセント記号がある)。この詩はどう説明していいのかわからないが、とても気になる。
ひどくあたりまえの僕たちだった とてつもなく巨きな
青銅の像が僕たちの上にたおれかかり そうして
世界が変った もはや僕たちは知らない この世界から
どうはなれてよいかを (その朝
僕たちは 一つがいの鳥になって飛ぼうとしたの
だったのに) 森はもえ上っていた 蝋細工のように……
僕たちは知らない やけしんでいく
森のけだものたちをどう救い出すかを 第一
僕たちはもう はなればなれだった 僕は君の
眠りのない夢の中に存在していなかったし 一人で
坂をかけおり 泉のほとりで自分を
病人だと おもいたかったのだ けれどさっき
世界は変って 泉なんぞどこにあることか 両腕の中に
僕が必死に支えたのは もう何千マイルも遠くにいる君の
黒パンみたいな 肉体じゃなかったかしら
おわりから4行目の「おもいたかったのだ」ということばに惹かれる。抒情がここから始まっていると感じる。
「おもいたかった」ということは、現実はそんな具合にはならなかったということだろう。「おもいたかった(けれどおもえなかった)」。書かれていない「けれど」のなかに本心が隠されている。隠すことで伝える抒情、隠しているものを浮かび上がらせる抒情がここから始まっている。
書かれていない「けれどおもえなかった」が事実だとすれば、「おもいたかったのだ」は隠すことのできない欲望を主語とする「誤読」である。「病人」は「誤読」された入沢自身の姿である。自分自身を「誤読」する--そういう抒情があるのだ。
「誤読」は自分自身だけではなく、「君」をもふくむ。
世界が変った。何をしていいか「知らない」。「一つがいの鳥になって飛ぶ」という空想は「僕と君」のふたりによって思い描かれた夢かどうかわからない。「僕」がひとりで見た夢かもしれない。その空想さえも「一つがいの鳥になって飛ぼうとしたの/だったのに」というように、実現しなかった。空想にさえならなかった。「誤読」の「空想」だった。
すべての事柄は「過去形」で語られ「知らない」だけが「現在形」で語られる。そして、「知らない」の対極にあるのが「おもいたかった」という気持ちなのだ。
「誤読」がつくりあげていく「抒情」。あるいは「抒情」のなかには「誤読」が潜んでいるというべきか。「抒情」が読者のこころに忍び込むのは、「誤読」された世界を愛する気持ちが読者のなかにもあるからだろう。事実よりも、「誤読」するこころのなかに動いている願いを共有したい思いがあるからだ。
「僕たちはもう はなればなれだった 僕は君の/眠りのない夢の中に存在していなかったし」という行を読むとき、読者のこころにいきいきと見えてくるのは、「君の夢の中、満足して眠る眠りの夢の中に存在する僕」の姿である。ほんとうの夢がかなえられず、それは存在しないと告げるしかない悲しみ。その抒情。
「おもいたかった」は、それ自体は「誤読」ではない。「思った」方が「誤読」である。しかし、「誤読」せず、「おもいたかった」と書く方が、はるかに「誤読」への願望が強くあらわれている。
--ここに抒情詩の不思議な何かがある。