最初の詩集『倖せ それとも不倖せ』には「それとも」が含まれている。どちらかであると断定しない。決定しない。別なものである可能性をいつも視野にいれておく。別な視点を常に用意しておく。そういう姿勢が入沢のことばを動かしているのではないだろうか。
「EPISODE 24.NOV.1953」。「 数寄屋橋から ほうりこまれた男の唄」「 見ていた男の唄」という2章から成り立っている。ひとつのできごとをふたつの視点から見る。この構成のなかにすでに「も」が含まれている。世界をとらえる視線はいくつも存在し、そのそれぞれに「正解」はある。「正解」が複数なら、どれを選ぶかは個人の問題になる。そして「正解」が複数なら、そこに「誤読」が紛れ込むのは必然のようにも感じられる。また逆に世界をとらえる視線がいくつもあるなら、それぞれに「誤読」はあるかもしれないし、その「誤読」のなかには「正解」につながるものも含まれているかもしれない。
「 数寄屋橋から ほうりこまれた男の唄」の書き出し。
手をはなすと
体がおれからはなれて 水面へにげてしまった
おれは今
ざりがにの如きものになってしまった
こうして泥のそこを あとずさりしていこう
案外
この水そこの泥の中でのほうが
娑婆でよりずっときれいに生きていけそうな気がする
「手をはなすと/体がおれからはなれて 水面へにげてしまった」。これはもちろん「事実」ではなく、男の心象風景だ。だが「心象風景」のなかには必ず「事実」がある。「心象風景」が事実のすべてではないが、そこには「事実」が含まれている。
「誤読」には必ず「誤読」を支える心象・真理が含まれており、心象・真理の「正解」を明確にいおうとして「誤読」した事実しか書けないということも起こりうる。
客観的事実としての真実、心理的事実としての真実。そして、心理というのは物理的なものではないから、簡単に揺れ動いてしまうときがある。そのことが「誤読」をいっそう複雑にし、複雑になるにしたがって、どんどん明確にというか、譲れない「真実」となってゆくこともある。
入沢は「誤読」のまわりを巡りながら、「誤読」の奥で透明になってゆく真実、心理的真実を追い続けているように思える。
「ざりがにの如きものになってしまった」。「ざりがに」は比喩である。「ごとき」が「比喩」であることを証明している。「真実」はそれが「比喩」であるということだけだ。「比喩」であるということにしか「真実」は存在しないはずである。
しかし、いったん「比喩」が動きだすと、その「比喩」のなかへとこころは動いてゆく。自分自身を「ざりがに」と「誤読」し、こころが動いてゆく。「ごとき」は瞬時に忘れ去られ、消えてしまう。
「案外……気がする。」
こころは、もう自分自身が「ざりがに」かどうかを忘れている。生きてゆけるかどうかだけを気にしている。「ざりがに」であることが前提ではあるけれど、こころは「きれいに生きて」いけるかどうかだけを気にしている。
「誤読」しながら動いてゆくこころ--その動きのなかにこそ「真実」がある。
「 見ていた男の唄」にも興味深い行がある。
理屈はどのようにでも つくだろう
「客観的事実」。しかし、その客観的事実を支える心理的事実。心理的事実はどのようにでも説明できる。この行のなかにも「も」がある。理屈はどのようにで「も」つくだろう。
「も」。「も」のつくりだす揺らぎ。揺らぎの中で確信を深めていくこころ。そこに「誤読」の真実がある。