荒川洋治「干し草たばね人」 | 詩はどこにあるか

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 荒川洋治「干し草たばね人」(「現代詩手帖」2007年04月号)。

逃げていった城門のようなところ
朝、横になり
まどろんでいた殺人犯テスは
「そうね」
といい
死の国へ向かう その見えない足首
テスはかわいそうだ
みんなあの男(途中からテレビをつけたから
二番目の男のことしかわからない)
が悪いと思い 五平は
いてもたってもいられなくなり
次の日から
テス! テス!
と叫んでまわった
ただ叫ぶと
重みがなくなることがあり
テスという名前は
エマに変わる
そういえばエマも
かわいそうだったなと思い(読んだことはないのに)
テスとエマ
になっていった

 この連がとても好きだ。この連だけ何度も読み返してしまった。
 「城門のようなところ」というずらしかたが絶妙だ。知っていても「知識」を出さない、というところに荒川の強い意志を感じる。ことばを、体のどこで動かすか、ということに関する徹底した意志を感じる。
 「そうね」という単純なことばをすくい上げてテスの人生すべてを代弁させる人間理解力のすごさも感服するしかない。人間の思想はいつでも単純なことばのなかにあらわれる。人間はいつもいつも「頭」で考えるわけにはいかない。むずかしいことばではなく、いつもつかっていることばで考えてこそ、自分自身のことばになる。

 「ただ叫ぶと/重みがなくなることがあり」。
 この2行の正直さは、とてもすごい。
 「知識」を出してしまっていたら、こんな正直さは出てこないだろう。一度「頭」で書いてしまうと、ことばは「頭」にひっぱられる。「頭」はいつでもことばをひっぱる。先に書いた思想と矛盾するようだが、人は「頭」で考え続けることができないのに、「頭」に頼ってしまう。「頭」で考えるとき、自分だけで考えるのではなく、「他人の頭」をりようできるからだ。ことばを「頭」で書くことに、「他人が頭で考えたことば」を書くことに、人間は慣れてしまっている。荒川は、その慣れに対して、厳しく抵抗している。
 「そういえばエマも」以下も、どきどきするくらい美しい。
 「なっていった」。ああ、「なる」というのは、確かにこんな具合につかうのだと思い、ぞくっとする。