博多座「二月花形歌舞伎」。昼の部。市川海老蔵「高時」、尾上菊之助「春興鏡獅子」、尾上松緑「蘭平物狂」。
次代の歌舞伎界を支えるといわれる3人。尾上菊之助「春興鏡獅子」が一番おもしろかった。特に女小姓・弥生が獅子にとりつかれていく場面がつやっぽい。若さがそのまま輝きになって、せつない。獅子にとりつかれ、自分の肉体なのに自分で制御できない、そのアンバランス、無理強いされて動く肉体が、若さゆえのしなやかさを引き出している。蝶にさそわれ獅子が目覚めるときの、不規則な躍動。蝶に誘われるように花道を走るそのスピードの滑らかさ。そうした場面に眼を奪われた。獅子の精の舞は、弥生の印象が強すぎたせいか、勇壮というよりは、軽い感じがした。肉体を酷使している感じがない。歌舞伎の魅力というのはいろいろあるのだろうけれど、普通の人ができない動き、無理な姿勢、無理な動きがつくりだす不思議な色気もそのひとつだと思う。それが感じられなかった。
これは市川海老蔵、尾上松緑にも言える。「高時」の最後、異形の者が高時をなぶる場面など、オリンピックの床運動(言い過ぎだろうか)のような感じがする。尾上松緑「蘭平物狂」の花道での梯子乗りも軽々としていて立ち回りもサーカスの曲芸のような印象がする。ほーっ、というため息がでる感じにはならない。
歌舞伎に限らないだろうけれど、芝居というのは、やはり役者の肉体を見るところ、見せ物なのだと思った。若いと何をしても、苦しまない。肉体の若さが、動きの苦しみを弾き飛ばしてしまう。肉体が、動き、苦しみ、その苦しみが、観客の肉体の苦しみを浄化するのが芝居なんだろう、などと考えた。