ポーラ・ミーハン「ハンナおばあちゃん」再読 | 詩はどこにあるか

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 ポーラ・ミーハン「ハンナおばあちゃん」(栩木伸明訳)再読(「現代詩手帖」2007年02月号)。
 ポーラ・ミーハン「ハンナおばあちゃん」(栩木伸明訳)の感想に対し、ビジターの19540507さんから批判があった。19540507さんの批判は、私が「西洋的な文脈」を踏まえていないということを出発点としているように思う。私はもちろん西洋人ではないし、キリスト教徒でもない。また、女性でもない。ポーラ・ミーハンの「文脈」(彼女が生活のなかで積み重ねてきた精神・感覚の背景)を知っているわけではない。したがって、すべては私が「頭」のなかで空想したことである。「西洋的な文脈」を踏まえていないという指摘には、反論する余地はまったくない。ただ、私がポーラ・ミーハン「ハンナおばあちゃん」で感じたのは、彼女の作品が私の理解している「西洋的な文脈」とは別個のものであるということ。そして、「西洋的な文脈」とは違うからこそ私のこころに響いてきた。感動的だった。そのことを、もう一度書いておきたい。
 まず、全文を引用する。

一番寒かった十一月の日
耳元でおばあちゃんの声--

神父様ニャアナンニモ言ッチャイケナイヨ。

わたしは十二歳、それとも十三歳だったかしら。

心ガケガレテルンダカラ。

罪ハジブンノ心ニ秘メテオクモンダヨ。

連中ヲゾクゾクサセテヤルコトハナインダ。

ダーティー・オウル・フェッカーズ。

鳥とか蜂蜜とかにおびき寄せられるみたいに
聖母像の前にひざまずいたおばあちゃん。
人生の現実をつかさどるわたしたちの聖母が

たたずんでいるのは懺悔聴聞室のすぐ脇。
聴聞室のドアは堅いオークを丁寧に仕上げてあって

ワックスをかけたうえに緩衝器(フェルトのクッション)までついていて
棺桶のフタみたいに音もなく閉まる。

きっちりつくったこの詩の箱のなかで
おばあちゃんの声は消え入る

おばあちゃんは目を閉じて

組んだ両手にふれんばかりにおでこが下がって
おんなからおんなへの

一心不乱のお祈りがはじまる。

 私はこの詩から「西洋的な文脈」(と、私が「頭」で考えているもの)とは違ったものを受け取った。「男の信じているキリスト教」(これを、私の「頭」は「西洋的な文脈」と呼んでいる)とは違うもも、「女性の感じているキリスト教」というものがあるのではないか、と感じた。そして、そのことに感動した。もちろん私は女性ではないので、私が女性と考えた部分も「頭」で考えた部分である。「西洋的な文脈」(実際の西洋人、かつキリスト教徒)、女性(かつキリスト教徒)から見るとおかしなところがたくさんあると思うが、この詩で考えたのは次のようなことである。
 私は、まずおばあちゃんのことばにつきうごかされた。
 「神父様ニャアナンニモ言ッチャイケナイヨ。//(略)//心ガケガレテルンダカラ。//罪ハジブンノ心ニ秘メテオクモンダヨ。//連中ヲゾクゾクサセテヤルコトハナインダ。」
 罪と心。「男の信じているキリスト教」(と私が「頭」で考えていること)では、罪は懺悔すれば浄化される。何度罪をおかしても懺悔するたびに清らかに生まれ変わることができる。そうやって、天国へ行ける。「神父様」は、いわば罪で汚れた心を浄化する手助けをする。
 ところが、この詩のおばあちゃんは、そんなふうには考えていないように私には思える。おばあちゃんは、では、どう考えているのか。「神父様」を批判する形で語っている。
 まず、おばあちゃんは「神父様ニャアナンニモ言ッチャイケナイヨ。」と少女に語りかける。「ナンニモ」とは懺悔にそうとうするようなこと、という意味だとおもう。なぜ神父様に何も言ってはいけないのか。「(神父様の)心ガケガレテルンダカラ。」(訳文にはないが、私は「神父様の」ということばを補って、この行を読んだ。え、なぜ、神父様の心が汚れている? 逆じゃないか? そういう疑問に、おばあちゃんは次のことばを挿入する。いわば補助線のようなもの。起承転結の「転」のようなもの。「罪」(たとえば、許されていないセックス、神に誓った相手ではない人間とのセックス)は「ジブンノ心ニ秘メテオクモンダヨ。」これは、おばあちゃんの体験そのものだろう。おばあちゃんは、かつて、もしかするとそういう「罪」を神父様に懺悔したことがあった、あるいはおばあちゃんのさらにおばあちゃんから、神父様に懺悔した体験を聞いたことがあった。そのとき、何が起きたか。おばあちゃんの(女の)心は浄化されたのか。そうではなく、いやな思い出だけが残った。つまり「連中(神父様--つまり男)」が欲望をくすぐられてにたにたした。「ゾクゾク」感じた。--「西洋的な文脈」は私の実感ではないが、この「連中……」の行に書かれていることには、私は責任を持って自分の感想を言うことができる。「頭」ではなく「肉体」で感じていることを書くことができる。女性が、しかも若い女性が彼女のセックス体験を懺悔するのを聞くことができたら、私の肉体は「ゾクゾク」する。興味津々、冷静を装いながらも、感情は、女性が語る体験の相手(男)に重なってしまっている。おばあちゃんの言っていることは「正しい」と思う。「西洋的な文脈」のなかではどうか知らないが、私の「男の文脈」のなかではおばあちゃんはほんとうのことを言っている。おばあちゃんが「彼ノ」あるいは「神父様ノ」と単数形ではなく「連中」と複数で語っていることを見ると、おばあちゃんは、懺悔すること、告白することで、こころが浄化されるどころか、逆に「セカンドレイプ」のような苦悩を味わったことがあるのかもしれない。そして、そんなつらい思いをしないように、少女に「神父様ニャアナンニモ言ッチャイケナイヨ。」と語ったのだろう。
 では、「罪」をおかしてしまったら、少女はどうすればいいのだろうか。
 「罪ハジブンノ心ニ秘メテオクモンダヨ。」
 心は、「男性の」「西洋的な文脈」あるいは「男性の」「キリスト教」(と私が「頭」で考えているもの)では、懺悔によって何度でも浄化する。再生しなおす。つまり、心は「複数」ある。
 ところが、おばあちゃんは心はそんなふうに複数はないと感じている。懺悔によってセカンドレイプされる。ことばではレイプされないだろうけれど、「ゾクゾク」感じている視線によってレイプされる。心はひとつで、そのひとつの心が二度つらい思いを味わう。和泉式部(?)の歌ではないが「こころは千々に砕くれどひとつも消えぬものにぞありける」(うろおぼえ)に通じることがら(内容は正反対だが)がここには語られているのだと思う。心は肉体と同じでたったひとつ。懺悔なんかじゃ浄化されない。救われない。だから、肉体を他人にさらさないように、罪は少女自身の心に秘めておきなさい。それがおまえ自身を守る方法だよ、とおばあちゃんは言っている。
 そして、神父様にではなく、聖母像に祈りなさい。おばあちゃんのように、とおばあちゃんは実践して見せる。
 そのときのおばあちゃんは鳥や蜜蜂におびきよせられるように聖母像に近付いて行く。鳥や蜜蜂は人間を見て「ゾクゾク」なんかはしない。ただ無言でおばあちゃんがそこにいることを「許し」てくれる。聖母像も同じである。
 「人生の現実をつかさどるわたしたちの聖母」。この1行のなかの「わたしたちの」という所有格。これは「女性たちの」というのに等しい。「心ガケガレテルンダカラ。」という1行には所有格がなかった。なかったが私は「神父様の」を補って読んだ。「神父様の」はほとんと「男たちの」に等しい。だからこそ「連中」ということばもでてきた。
 「神父様の」が省略され、「わたしたちの」が訳出されている。ここに、この詩の訳のすばらしさがある。「わたしたちの」は、「人類の」ではない。あくまで、罪を犯して、それを懺悔せずに心に秘めて生きる「女たちの」と同じなのである。
 「おんな」ということばは、この詩ではとても大事である。だからこそ、最後の最後まで、そのことばはつかわれず、ぎりぎりの、そのことばなしでは1行が成立しないときになって、やっとつかわれる。

組んだ両手にふれんばかりにおでこが下がって
おんなからおんなへの

一心不乱のお祈りがはじまる。

 男の祈りは、たぶん、彼ひとりの祈り、ただ自分の心だけが浄化されればそれですむ、個人主義的な祈りである、というのがおばあちゃんの実感なのかもしれない。男にとっては、肉体もまた、彼ひとりのものであるだろう。(男である私は、私の肉体は私個人のものと考えている。)ところが、おばあちゃんにとって女の肉体は彼女ひとりのものではない。女から女へつづいてゆくもの。おばあちゃんからその娘へ、そして孫の少女(ポーラ・ミーハン)へと受け継いで行かれるものなのだ。男(「西洋的な文脈」「キリスト教的な文脈」での男)が懺悔することで心が再生すると感じているように、おばあちゃんは肉体がおばあちゃんから娘へ、そして孫へと再生していくと感じているのだろう。そして、その再生して行く肉体のなかで、女の心は永遠にひとつのままつづいて行くのである。
 これがおばあちゃんの信仰だろう。再生する肉体のなかで引き継がれて行く心--それが「おばあちゃんのキリスト教」(聖母信仰)であり、それは男の信仰とはまったく違ったものなのだと思う。そして、その男の信仰とまったく違っているということに、私は感動する。

 これはもちろん、キリスト教徒でも女性でもない私のたわごとだろう。たわごとであっても、それが私の感じたことだ。
 キリスト教徒や女性が、この作品をどう読んだか、19540507さん以外の人の感想もお聞きできればうれしいのだが。