オリヴィエ・マルシャル監督「あるいは裏切りという名の犬」 | 詩はどこにあるか

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監督 オリヴィエ・マルシャル 出演 ダニエル・オートゥイユ 、ジェラール・ドパルデュー 、アンドレ・デュソリエ 、ヴァレリア・ゴリノ 、ロシュディ・ゼム 、ダニエル・デュヴァル

 フランス映画を見ていて一番奇妙に感じるのは距離感である。役者と役の距離感、役者と役者の距離感が、べっりとくっついている感じがする。映画なのにストーリーではなく、常に役者そのものを見ている感じがつきまとう。役者の肉体が必要以上に役を乗り越えて前面に出てくる。
 ダニエル・オートゥイユとジェラール・ドパルデューはともに鼻と目に特徴がある。
 ダニエル・オートゥイユ の鼻は左右が極端に違っていて、しかも大きい。目はなんだか濡れていて、いつも自分の内部を、あるいは親密な人間の内部を見つめている。内部が犯されること、踏みにじられることを、いつも心配している。その手触りのような感じが不思議だ。目を見ていると、ダニエル・オートゥイユに触れる感じがする。
 ジェラール・ドパルデューの鼻の頭は割れている。そして大きい。目は、内部をのぞかれることを拒絶し、そして他人の内部へも入っていかない。まるで人間に内部というものなどないかのように他人を見つめる。ただ外部だけをなめまわし、平気で内面を拒絶する。そこにも手触りがある。払いのけたいような、いやな感じがある。それはそれで、ジェラール・ドパルデューに触れている感じがする。
  そして、その人間性というのが、どうも触覚的なのである。視力というのは離れていて(目と対象の間に距離があって)初めて成立するものだが、二人の目は、触覚のように肉体に絡みついてくる。--二人の目は、もちろん演技なのだろうけれど、その演技に乱れがないために、それがそのまま二人の人間性のようにして迫ってくる。
 たぶん、この触覚的な視線のためなのだと思うが、この映画にはハードボイルドという感じがない。そしてストーリーを映像を媒介にして見ているという感じもしない。はらはらどきどきという感じがまったくなく、生々しい肌触りだけがある。その生々しさに、思わず触ったものを握りしめたり、逆に、ぎょっとして手をひっこめたりするような肉体の反応がつきまとう。ストーリー手はなく、その瞬間瞬間の手触りの変化に引き込まれ、揺さぶられるのである。
 この手の映画をフランス語でフィルム・ノワールという。黒い映画。黒いは「暗黒街」というような意味合いだが、そのノワールから私は別のことを感じた。この映画を見たあと、その印象が強くなった。
 黒--暗闇。そこでは視力は何もとらえない。暗闇では人間は手さぐりである。手で触って、それが何かを確かめる。それがそのまま映画になる。それがフィルム・ノワールだ。
 暗闇の中で、手は思いがけないものに触る。たとえばダニエル・オートゥイユの「信頼」という手触りに。「信頼」を何があっても守り抜く。その確かさ、強固な拳の感触に安心する。握りしめるということは、それがたとえ自分を傷つけるものであっても手放さないということだ。
 また逆に、ジェラール・ドパルデューの「裏切り」に。「手のひらをかえす」という日本語があるが、それはダニエル・オートゥイユの握りしめる手とはまったく逆だ。開かれた手は無防備のように見えて、自分をけっして傷つけず、他者をぱっとほうりだす強暴さをもっている。その強暴さに、ぞくっとする。
 ハリウッドの「ハード・ボイルド」あるいは「ギャング」映画には、はらはらどきどきがあるかもしれない。フランス映画のフィルム・ノワールには、はらはらどきどきのかわりに、ほっとする安心感と、それとは逆のぞくっとする恐怖感がある。どちらも手触りである。それは目では見えない。暗闇の中で、手さぐりで、触ったときに感じるだけのものである。その感じ--それを目でみることは、ふつうはできない。その目で見えない手触りをこの映画は再現している。二人の役者は再現している。
 強烈である。