石山淳「メモリアル・パーク」再読 | 詩はどこにあるか

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 1月26日に石山淳『石山淳詩集』(トレビ文庫、2007年01月10日日本図書刊行会発行、近代文芸社発売)の感想を書いた。直後、19540507さんというビジターから、「肉体/頭」という区分が文学の生命線ではないのではないか、というコメントが寄せられた。
 「メモリアル・パーク」について、もう一度触れる。

二十世紀文明を象徴する
ニューヨークの世界貿易センターへ
黒いミニチュア機が 水平のまま
液状ゴムの皮膜か
チョコレート液面に
すっぽりと吸い込まれていった

 1連目。私は「液状ゴムの皮膜」「チョコレート液面」がおもしろいと感じた。そのときは書かなかったが「ミニチュア機」「すっぽり」もおもしろいと思う。
 私がおもしろいと感じた部分は、いずれも「事実」とは違ったものである。貿易センタービルへ突入したのはミニチュア機ではない。ビルは液状ゴムの皮膜ではできていない。チョコレート液面でもない。すっぽり吸い込まれていったわけでもない。コンクリート、鉄筋、ガラスとぶつかり、そういうものを激しく壊しながら侵入していったのである。侵入することで破壊しつくしたのである。しかし、テレビで目撃したとき(と、思う)、石山の肉眼には、その後明確になった「事実」(頭で整理しなおした客観的な事件のありよう)はわからなかった。まったく違ったものに見えた。いわば、石山の肉眼(肉体)は「事実」を間違えて把握した。
 私がこの間違いをおもしろいと感じるのは、その間違いは修正されるものだからである。修正が可能なものだからである。肉眼(肉体)は見間違える。そして、それが間違いだと気がつき、少しずつ修正する。その修正という過程から「思想」が生まれる。何が正しくて、何が間違っているかを判断する基準をはっきりさせることから始まり、間違えないようにするにはどうすればいいか、と考え直さなければならない。間違えた部分を言いなおさなければならない。自分自身のことばをつくりかえなければならない。そして、そのとき「肉眼」そのものも鍛えられ、真実を見抜く眼になるのである。肉体の間違いの修正は肉体を鍛え直す。そして人間は生まれ変わる。人間を再生させるものを「思想」と私は読んでいる。

 自分のことばを修正するにはいろいろな手段がある。石山は、いきなり「他人の頭」をつかっている。それが2連目。

それは
怪獣映画の一コマに見紛(みまが)う
スロー・モーション映像におもわれた

 「怪獣映画の一コマ」「スロー・モーション映像」は映画監督が表現したものである。その一コマ、スロー・モーションは映画監督の肉体がつかみ取ってきたものを「頭」で整理し、再現したもの、いわば「ことば」である。それを石山は借用している。「映像」であるために石山は、そういうものを「肉眼」で見たと錯覚しているのかもしれないが、映画の映像は小説や詩、哲学でいえば「ことば」と同じものである。「ことば」のかわりに映像で語るのが映画である。そういうふうに他人の「ことば」(映像)を借用することは、自分のことばで考えることではなく、他人のことばで考えることである。「肉体」は何もせず、「頭」が他人のことばを借りてきて、石山の肉体に密着したことば「液状ゴム」「チョコレート液面」を「スロー・モーション映像」に修正する。石山は単に「頭」を修正しているに過ぎない。
 肉体と頭が、このとき断絶したのである。1連目と2連目では大きな断絶、修復しがたい断絶がある。
 「液状ゴム」「チョコレート液面」「すっぽり」にはいずれも皮膚感覚がある。手でさわったときの感触、触ったもののもっている柔らかさ、ねばねば、あるいは不気味さの感触。そういうものが2連目で一気に、跡形もなく消えてしまっている。「肉体」そのものがなくなってしまっている。
 こういう「修正」の仕方は、石山の独自の視点を単に消し去ることであって、真の意味での「修正」、間違いを乗り越えることによって獲得する「思想」とは関係がないと私は思う。
 映画監督の「頭」、そのことば(映像)をつかって石山の肉眼が見たものを修正したために、石山は、最後を次の6行で閉じることになる。

ツイン・ビルに黒鉛が上がり
骨材が 火を噴き
耐火ガラスが火を噴き
あれから 半年がきて
「受難の聖地」に
今も 人間が生き埋めになっている

 ここには最初のことばの痕跡など少しもない。最後の6行はまるでテレビレポーターの報告である。どこにも石山のオリジナルを感じさせるものもない。こういうことばになってしまったのは、1連目のオリジナルなことばを、2連目の絵画監督のことば(映像)で修正してしまったことに起因すると私は考えている。その後も最終連まで石山はさまざまに修正を試みるが、そのどこにも1連目のような「間違い」がない。間違えながら現実に接近していくときのリアルさがない。
 石山は、「液状ゴム」「チョコレート液面」ということばを石山自身の肉体を動かして修正する可能性を捨ててしまって、映画監督の「頭」で修正してしまった。それを私は残念に思う。今、石山の「液状ゴム」「チョコレート液面」を見た肉眼は何を見ているのかわからない。「受難の聖地」の痛み(触覚)がわからない。「液状ゴム」「チョコレート液面」を感じた触覚が、9・11テロの現場で何に触り、そこからどんな触った感じを肉体のなかに受け止めているのかわからない。
 石山の肉体は何も変わっていない。これでは詩を書いた意味がない。詩を書くということは、書く前と書いたあとではまったく違った人間になってしまうことである。すくなくとも、そういう可能性に接近することである。
 もし、ほんとうに石山が自分の肉体を大切にし、そこからことばを積み上げていく作業を進めるなら、最後は、修正された触覚が修正されたものとして立ち上がってくるはずである。誰も書かなかった「触覚」がことばとして書かれるはずである。それが「思想」というものである。そうならないのは、繰り返しになるが、2連目で映画監督の「頭」(ことば、映像)に頼って石山の肉眼を修正してしまったためである。石山は、いわば自分で自分の可能性を放棄してしまっている。「頭」で書くことで、石山は「肉体」の可能性を閉ざしてしまったのである。こうした変質を、私は非常に残念に思う。