高橋睦郎「学ぶということ」 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 高橋睦郎「学ぶということ」(「現代詩手帖」12月号)。
 オックスフォード。町に迷って突然墓地に出る。そこで高橋は若者たちが墓蓋に足を伸ばしたり腰掛けたりして本を読んでいる。音楽を聴いている。議論している。

大学の町に迷っていて 突然出た明るい墓地
五月の草花が乱れ咲き 蜜蜂が羽音を震わせる中
碑銘板に背を凭(もた)せ 墓蓋に腿を伸ばして
テクストを読むのに余念のない 髭の若者
向いあった墓に胡座(あぐら)して 議論に夢中の二人もある
通りかかる大人の誰一人 咎める者もない
咎めないのは 墓の下の死者たちも同じ
若い体温の密着を むしろ悦んでいる面持ち
生は死と 死は生と いつも隣り合わせ
学ぶとはつまるところ その秘儀を学ぶこと
生きて在る日日も 死んでののちも

 最後の1行が不思議だ。「生きて在る日日も」はわかる。学ぶということは生きているときにすることである。それにつづけて高橋は「死んでののちも」と付け加えている。そんなことができる? できたとして、誰にその事実を確認できる? 死んだあと、生と死が隣り合わせであると死者が学んでいると誰が認識できるだろうか。
 ところができるのである。それが「詩」である。

 この詩の「キーワード」はしかし「死んでののちも」ということばではない、と私は感じている。いや、「キーワード」なのかもしれないが、そのことばだけでは、なんのことかわからない。「死んでののちも」の「死」に対応するものがこの作品には隠されていて、それが真の「キーワード」なのだと思う。
 なかほどの「大人の誰一人」。詩文学とはほど遠いそっけないことば。これが「キーワードだ。「大人」が「死んでののちも」で描かれている「死」よりもさらに死んでしまった人間である。
 大人と若者は隣り合っている。その境界線はあるようで、具体的には存在しない。具体的に存在しないにもかかわらず、隣り合っていることを忘れ、むしろ隔絶した状態で生きている。共存している。それは墓蓋と若者の関係に非常に似ているようで非常に違っている。大人は「墓蓋」よりもさらに死んでいる。完璧に死んだ状態なのだ。「墓蓋」の方が若者の体温と密着しているから、まだ、「隣り合っている」と言えるのだ。「大人」は「若者」と接していない、見えるのに接していない。だから完全な「死」である。それに比較すれば、墓蓋の下の人間は直接的に若者と接している。ゆえに、そこから何かを学びうる。学んでいるように見える……。
 もちろん、これは「比喩」である。「比喩」でしか語ることのできないことがらである。
 そして、この「比喩」を語っているとき、高橋は、どちらに属しているのだろうか。若者を咎めない「大人」の一人か。「若者」か。「墓蓋」の下の住人、つまり死人か。「大人」と「若者」、つまり比喩としての「完璧な死人」と「若者」の両方を見つめ、さらに「若者」と比喩ではない「死人」の両方も見つめている、どこにも属さない人間である。どこにも属さないかわりに、どこにも属すことができる人間である。両方を往復する人間である。往復するとは、見つめながら、あれこれ考えることである。

 たとえ高橋が「大人」、若者から完全に隔たってしまった人間、比喩としての完璧な死人であったとしても、「生と死が隣り合っている」という秘儀を学ぶことはできる。「若者」を見ればいいのである。見て、考えればいいのである。
 「若者」が何をしているか。「若者」が「死」をどんなふうに取り扱っているか。それが気がついたときが生と死の隣り合っていることを学ぶ好機なのである。「若者」と「死」を往復するとき、その「隣り合い方」がわかるのである。高橋は、それをオクスフォードで発見した。

 「死」を旅によって洗い流す--そういうことを高橋はしたのだと思う。その痕跡が、「学ぶということ」に残っている。「操舵室にて」にも残っている。

晴れわたったダブリン湾 外洋のアイリッシュ海
だが それは見える海 その先には見えない海

 旅は見える海に触れながら、その先の「見えない海」を見ることだ。
 生と死が隣り合っている--ということは肉眼では見えない。ところが、高橋は、それを肉眼で見たのである。オクスフォードで見たのである。そして、その肉眼が「大人」を完璧な死人に見せたのである。
 肉眼を取り戻した高橋がここにいる。
 「通りかかる大人の誰一人 咎める者もない」という1行は、あまりにもそっけなく、散文そのものであり、「詩」になっていないようで、その実、このどうしようもないそっけなさ、そう書くしかなかった肉眼が、「死んでののちも」という強いことばを引き出すのである。