飯島耕一「通天橋」 | 詩はどこにあるか

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 飯島耕一「通天橋」(「現代詩手帖」12月号)。

黄葉山前(こうようさんぜん) 古郡城(こぐんじょう)
鞆ノ浦の瀬戸内の浜から北へ
神辺(かんなべ)に
菅茶山の跡を
訪ねる
長いあいだ
行きたいと願った土地だ
黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんじゃ)の
山や川 そして


茶山先生に一目だけでも と
江戸から西へ
九州から京へ はるばると旅する
江戸中期の詩人たちは
神辺への道を辿った

いまはただその山川の
天を仰ぐのみ

翌朝 京都で眼ざめると新聞に
北スペインのパンプローナの牛追い祭りの写真が出ている
今年の七月は青舌病という牛の病気で
闘牛も祭りも中止かという

京都駅に近い寺で
通天橋を さっと眺めて この旅は終わった

 とても不思議な作品である。「通天橋」「黄葉山前」ということばから秋の詩だとばかり思って読み始めた。秋に、菅茶山のふるさと神辺を訪ねて旅したのだと思って読み始めた。すると突然

翌朝 京都で眼ざめると新聞に
北スペインのパンプローナの牛追い祭りの写真が出ている
今年の七月は青舌病という牛の病気で
闘牛も祭りも中止かという

 と「今」が7月だと知らされる。より正確には7月6日(パンプローナの牛追いが始まるのは確か7月6日である)より以前であることがわかる。
 そして、この瞬間、世界が大きく動く。

 飯島は想像力で「黄葉山前 古郡城」を見ている。「長いあいだ」夢見ていたので、今が7月であろうが何月であろうが、飯島には黄葉が見えるということだろう。そして同時に、菅茶山にあこがれて、菅茶山を訪ねた多くの人のこころも見えるのだ。それは今、神辺の「天」にある、空気の高みにある、と飯島は感じている。
 この「天」ということばは、飯島の「空」ということばを連想させる。飯島は「空」の詩人。空気の高み、精神の高み、「高さ」の詩人だ。神辺で、飯島は多くの詩人の呼吸した空気(空)の高みを呼吸した。それが飯島の旅だった。
 いったんそういう高みを呼吸したあと、飯島はさっと現実に帰る。帰るといっても、いったん高みを呼吸したあとでは、視点が違ってきている。近くではなく、どうしても遠くまで視線が動いて行ってしまう。高いところから遠くが見えるように、飯島は、京都にいるのに地球の裏側のスペインにまで視点が動いて行ってしまうのだ。
 このとんでもない(?)視線の拡大、視野の拡大が、いっそう、「天」(空の高み)を感じさせる。

 ばかみたい、といえば、ばかみたいだ。なんだこれは、といえば、なんだこれは、としかいいようがない。しかし、そんなふうにして視線が自由なのは詩人の証明なのだといえば、そうだろうなあ、としかいえなくなる。
 菅茶山とパンプローナの牛追いにはなんの関係もない。関係もないものを結びつけて、そこに世界を繰り広げるのが「詩」である、といえば、たしかに「詩」である。

 そういう「高み」を存分に遊んだからこそ、飯島は

京都駅に近い寺で
通天橋を さっと眺めて この旅は終わった

と黄葉の名所「通天橋」(東福寺)を「さっと眺めて」過ぎ去って行く。この「さっと眺めて」が「詩」である。詩人である。7月、紅葉の季節でもない。「天」なら、神辺ですでに見た。わざわざ通天橋で時間をつぶす必要もない、ということだろう。
 見たいものは見る、見たくないものは見ない。この単純性に飯島の美しさがある。