デイヴィッド・エリス監督「スネーク・フライト」 | 詩はどこにあるか

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監督 デイヴィッド・エリス 出演 蛇、サミュエル・L・ジャクソン

 映画にはいろいろな種類がある。芸術をめざしたもの、政治的プロパガンダをめざしたもの、性的興奮をめざしたもの(簡単に言えば「ポルノ」のことだけれど)……。芸術を拒否したものをときどきB級映画と言った(今も言うのかどうかは知らない)が、これはなつかしいなつかしいB級映画をめざし、一片の芸術性もまじえずにおわる正真正銘のB級映画である。
 毒蛇によるハイジャックという発想の奇抜さ。そして、それを彩るパニックの、あくまでありきたりな描き方。乗客のなかの悪役と善人の描きわけ方。セックスのちらつかせ方……。
 そうしたことは、たぶん映画好きな人ならだれでも書いているだろうから、私は別なことを書こうと思う。
 私は2か所で笑いをこらえることができなかった。どちらもそのシーンそのものがおかしいというよりも、そのシーンを見た瞬間に、それに先立つ「伏線」を思い出して噴き出しそうになったのである。この映画はとてもとてもとても(3回繰り返してもまだ足りないくらい)「伏線」が丁寧に丁寧に張りめぐらされている。
 私が笑いをこらえることができなかった最初のシーンは、サミュエル・L・ジャクソンが銃弾をぶっぱなし窓を破るシーン。空気圧の関係で、なかにいるものが空中へ吸い出されていく。蛇は何かにしがみつくことができずに全部(でもないのだが)、空中へ吸い出されていく。「凶器」がなくなる。--これの「伏線」は乗務員が乗客にシートベルトを絞めるだの、酸素マスクがおりてくるだのの説明をするシーン。こんなことは誰もが知っていてわざわざ映画でみせなくてもいい。しかし、それをわざわざみせているのは、その説明のなかに、はっきりとは記憶していないのだが「窓が破れたら云々」という説明が含まれているからである。もちろん、そういう説明抜きでも、窓が破れたときどうなるかは誰もが知っている。知っているのに、わざわざ「伏線」として、そういうことを映像化してしまうご丁寧さに、思わず笑ってしまうのである。
 もう一つは、ラストのサーフィンのシーン。なんのためにこんなシーンがある? それは最初のシーンが海だからである。どうでもいいことをご丁寧に辻褄をあわせている。わざわざ「伏線」として完成させている。「伏線」を強調している。ハワイ、島、まわりは海だけ。飛行中に何かあっても緊急着陸できる場所はない、という全体のパニックの原因の、蛇以外の「伏線」を、海によってもういちど強調しているのである。
 「ね、いいでしょ、すごいでしょ。伏線だらけでしょ」という脚本家の声が聞こえそうである。
 ハワイならやっぱりレイ、匂いがついているといいでしょ。匂いといえばフェロモン。蛇をフェロモンで狂わせる--そしてそのフェロモンは蛇のフェロモンだから人間は気がつかない。飛行機のなかで空気が循環する。その流れにのってフェロモンはどこまでも広がり、蛇はどこまでもそれを追いかける。すごいアイデアでしょ? そんな声が聞こえてくる映画だ。
 そして、この映画をB級にしているのは、実は、その「声」である。見事な伏線でしょ、と自慢している「声」である。映画には作者の自慢話はいらない。作者の自慢話は映画をつまらなくするだけである。冒頭の海のシーン(付随する海辺のシーン)、乗務員の飛行前の説明シーン、ラストのサーフィンのシーンがなければ、かなりおもしろいB級映画になったと思う。