山之内まつ子『小匙1/2の空』 | 詩はどこにあるか

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 山之内まつ子『小匙1/2の空』(ジャプラン)。
 ことばの動き方、特に「省略」に特徴がある。たとえば「アピタイト(Ⅱ)」の2連目の2行。

冷凍庫に吊られていた
みごとに省略された家畜

 「省略された家畜」とは皮をはがれ、内臓を処理され、肉と骨だけになった牛や豚のことであろう。切り分ければ、そのまま店頭に並べられる状態になる肉塊のことであろう。こういうことは私が説明しなくても、つまり「省略」しても、誰にでもわかることがらである。
 こうしたことばの処理が山之内は非常にうまい。強引なことば運びがない。だれにでもわかる(想像できる)範囲で、ことばを省略し、同時に飛躍させる。

 「省略」(私は、「省略」を山之内の「キイワード」だと考えている)とは、単になにかを省いているだけではない。特に山之内の「省略」は単になにかを省いたものではない。「省略」は「飛躍」を含んでいる。いや、「飛躍」するために「省略」がおこなわれている。そこに特徴がある。そして、その「飛躍」を大きく見せるために、一種の「過剰」が同時におこなわれる。それが山之内のことばの特徴だと思う。
 
冷凍庫に吊られていた
みごとに省略された家畜

 という2行では、家畜を屠殺し、皮をはぎ、内臓を捨てるといった作業が文字通り「省略」されている。そして、その「省略」した作業、人間と牛や豚との直接的な関係を「過剰」に伝えるために「家畜」ということばが選ばれている。
 山之内が「みごとに省略された家畜」と表現したものを、普通は「きれいに解体処理された牛(豚)」と言うだろうと思う。山之内は普通は「牛(豚)」と言うものを「家畜」と言う。ことばに対する感覚は人それぞれだから私と違った風に感じる人がいるかもしれないが、私は「牛(豚)」ということばよりも「家畜」の方に生々しい動物のにおいを感じる。山之内は「家畜」ということばで、そこに生きもののにおいを「過剰」に表現していると思う。「牛(豚)」ということば以上に、それを育てているときの、面倒くささというか、人間の側も汚れてしまう雰囲気が農耕に伝わってくる。そしてこの「過剰」さは、それに先立つ「省略」ということばによって、いっそう強められている。人間が直接、屠殺し、皮を剥いだり、内臓を捨てたりしているのに、そういう血まみれの作業のありようはなかったかのように「省略」されている。一方で人間の肉体が汚れる(直接他者とかかわる)部分が省略され、他方で人間の肉体が汚れるという関係が濃密に(過剰に)暗示される。
 この「省略」と「過剰」のバランスが、山之内のことばにおいては、とてもスピードがある。そして安定している。そのため、とても安心して読むことができる。そして、そこに描かれる「省略」と「過剰」は基本的には「頭脳」で判断することばなのだが、どこか肉体を刺激する。人間の肉体の汚れる感じを呼び覚ます--その汚れに対する嫌悪と安心を呼び覚ます。山之内のことばには肉体の裏付けがある、という印象が残り、「省略」と「過剰」がつくりだす言語宇宙へスムーズに入っていける。

 「ストーン」のなかにも印象的な行がある。2連目の第1行

このてのひらは最近 石を投げたがる

 「石を投げたがる」のはもちろん「てのひら」ではないだろう。基本的に「てのひら」の所有者、人間の方である。人間の精神、感情、頭脳である。ところが、それを山之内は逆に書く。肉体の動きたがるうずうずしたもの、そのことばにならないものを追いかけて「投げたがる」という感情が生まれる。精神が生まれる。まず肉体が立ち上がり、そのあとから脳がやってくる。
 明晰な頭脳である前に、不透明な肉体を生きている--という感じがあって、はじめて、この行の「省略」と「過剰」が納得できる。
 このとき山之内の感情(精神・脳)がどんな風に動いたかは全部「省略」され、かわりに肉体の動きだけが「過剰」に描かれる。てのひらが石を投げたがることなどないのに、まるでてのひらに感情があるかのように描かれる。てのひらに感情が、そして意志が「過剰」に付与されているのである。



 比喩とは「省略」と「過剰」の相互作用によって成り立つ。ある存在のある部分が「省略」され、別の部分が「過剰」に描かれるとき、それはその存在を離れ、比喩になり、象徴になる。
 そうしたことがらを意識した上で「シード」を読むと、そこに描かれているものがよくわかるし、また、山之内の言語処理の安定感(これは「省略」と「過剰」のバランス、距離感が崩れない、という意味である)もよくわかると思う。
 ここには、なにかに対する怒り--そこから燃え上がる火。そしてそれが肉体に作用する様子が、火という比喩から出発し、歴史や音楽を揺り動かして、ひとりの人間を生成していく感じが的確に描かれている。

枯れ草から火の手があがる
わたしは高熱で枕に沈んでいる
地下に眠っている歴史が音符に変換され
ピアニッシモ/フォルテッシモで交互にわたしを叩く
火の種は思いのままに乱診しているだろう
わたしはひたいに類焼を感じとる
ここから遠い空き地が火事だ
半ばモーローと来る幻視
火の種とわたしの躯が
仲のよい双子のように宙に並ぶ
焼けてしまえば美しい地勢たちだ
と見物人らがそろってつぶやく
           (谷内注・9行目の「躯」は原文では正字体)



 山之内の詩でひとつだけ私が気になるのは、比喩の「省略」と「過剰」のバランスのよさの一方で、その比喩がなんとなく古くさいことである。「シード」が特徴的だけれど、怒り→火→高熱といったような比喩の連続は山之内がことばにする以前からすでに存在していて、そうした安定した比喩に依存している感じが残ることだ。
 この安定感は、それはそれでいいのだけれど、もっと違ったことば、まだ誰も比喩にしていない世界へとことばを広げていってもらいたいという気持ちがつのる。