「侃侃」9号に田島は4篇作品を書いている。そのうち3篇に「不安」ということばが出てくる。そのうち、ほんとうに「不安」が必要なのは、「木と鳥と」の次の行だけだろう。
どんな不安も消える
そんな一瞬を見たくて
屋上にあがり
小さくぽっかりと開いた空間を見下ろす
この「不安」は存在しない。「消える」からである。存在しないゆえに「不安」ということばであらわすしかない。
他の「不安」は私には「不安」と表現する必要があるのかどうかわからない。「木と鳥と」のつづき。
見下ろすと
揺れている木々の大きな枝先に
一羽だけ鳥が止まっている
木々の揺れに沿って鳥も揺れる
不安げに
なんともさびしげに
たった一羽だということが
なぜかわかっているので
「不安」ということばをつかわずに「不安」を書くのが詩だ--というようなことをいまさら言っても何にもならないだろうけれど、「不安」と書くことで田島は安心してしまっている。「不安」がどのようなものであるか感じることをやめてしまっている。
だから次の美しい行が屹立してこない。
決して二羽だったりしないことが
もう一羽の不在が
木の不在でもあるかのように
「不安」はここにこんなにくっきり描かれているのに、その前に「不安」ということばがあるために、これはいったい何のこと?と読み返さなければならなくなる。まさか「不安」ではないだろうなあ。「不安」ということばは、すでに田島によって書かれてしまっているからなあ……。
しかし、ここに描かれていることは「不安」以外の何物でもない。
こういう詩を読むと、なんだかとても悔しい感じがする。「不安げに/なんともさびしげに」という行がなければ、もっと違った作品、もっと読者を不安そのもののなかへ引きずり込んだだろうにと思わずにいられない。
ここには「不安」の哲学が具体的に描かれている。
鳥にとって「不安」とは仲間がいないことではない。もう一本の木の不在が「不安」なのである。木が不在であるがゆえに、もう一羽の鳥は存在できない。つまり、自己以外の何かが存在しないと、自己と同類のもの、ここでは鳥は存在しない。存在できない。
「不安」とは一種の「他人まかせ」のものである。
そしてその認識のなかで「不安」は共有される。「不安」は自己以外のものによって決定されるということを共有するとき、その瞬間から、不思議なことに「不安」は「安心」にかわる。
「不安」が存在するということが「安心」につながる。「不安」を感じることができるということが「安心」であるということなのである。
どんな不安も消える
そんな一瞬を見たくて
と田島は書いていた。そして、実際に、屋上から鳥を見下ろし、鳥の不安を見ることで、不安が消えたのである。
こんなに深い真実を
もう一羽の不在が
木の不在でもあるかのように
という2行で具体化できるのに、なぜ田島は安易に「不安げに/なんともさびしげに」という安易な行を書いたのか。そのことが私には不満である。
*
「不安」の共有こそが「安心」という一種の矛盾のような「不安哲学」は「新しい自分」という作品にも書かれている。電車のなかの風景。
隣に座った男が
その隣に座った女に話しかける
「冷たいだろう」
「冷たいわね」
冷たいのは男の心なのか
女の体なのか
わたしにはみえない二人の関係を
想像しながら電車を降りる
あの男も女も
不安という洋服を着ていたような気がして
わたしはなぜかほっとするのである
この哲学、田島がつかみとった真実を、「不安」ということばをつかわない形で読みたいと思う。