映画「マッチポイント」 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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監督 ウディ・アレン 出演 スカーレット・ヨハンソン、ジョナサン・リース・マイヤーズ

 この映画で一番美しいのはオペラのアリア(テノール)とともに流れるノイズである。CDではなくLP、そのアナログのノイズがとても温かい。ノイズがあるからこそ、そのノイズを越えてやってくるテノールが、こころの声として聞こえる。
 人間の生活はノイズに満ちている。ノイズに邪魔されて、本当のこころの声が出せない、聞こえないというのではない。
 たとえばジョナサン・リース・マイヤーズ。上流階級の生活を手放したくないというノイズのためにスカーレット・ヨハンソンとの愛の日々を成就できないというのではない。あるいはスカーレット・ヨハンソンへの愛欲というノイズのために上流階級の生活が破綻してしまうというのではない。どちらかがノイズであり、どちらかが本心というのではない。それは同時に存在する。
 ひとの「声」は瞬間瞬間に別のもの、矛盾するものとして表にでてきてしまう。どちらが出てくるかは、普通のひとには制御できない。それはこの映画の「テーマ」のようにして語られるテニスでのネットの上で弾んだボールのようなものだ。運がよければ相手のコートに落ち、運が悪ければ自分のコートに落ちる。自分のしたことなのに、自分では制御できず、一種の「運」任せである。
 そして「上流社会」とは、さまざまな「運」というものを見てきて(たとえば、音楽や芸術、スポーツに触れることで)、知らず知らずに「運」とはどういうものか、どんなふうにして働くかを、体得した人々のことである。(普通の人々は、さまざまな運の働きを傍観できるだけの時間的余裕がない。)
 そういう意味では、主人公のジョナサン・リース・マイヤーズは「運」を体得することで上流社会の一員となるのだが、その上流社会そのものも、最後にはノイズとして立ち上がってくる。あ、ほんとうに求めていたのは、これではなかったかもしれない、という寂しい表情として浮かびあがってくる。
 皮肉たっぷりのオチに、あらためてウディ・アレンの天才を感じた。