大谷良太『うっとうしかった』 | 詩はどこにあるか

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 大谷良太『うっとうしかった』(五月出版企画)。
 表題作がおもしろい。

きれいな骨だった
と彼女は手紙で言った
炉から出てきたとき
きても輝いていたの
生前のあの人と
まるで違って、ね
たくさん雨が降った
それでなくても
うっとうしかった
ときどき引き出しを開けては
筆跡を読み返した
何度も泣いたし
夜中に叫んで目覚めたりもした
あの人の思い出がまだ
整理できていないの、ぷつんて
切れたままなのよ
ベランダに鳩が
巣を作り
ひなを育てた
室外機の上で
クルックルッと首を回し
何かを問うようだった
きれいだった
あの人の骨、壺の中へ
あの人のすべての壺の中へ、それから
私は静かにふたをするの、
回線をつなぐから
待ってて。

 「うっとうしかった」の主語があいまいである。「彼女」が手紙のなかでそう書いているのか。それとも大谷が「彼女」の手紙を読んでそう感じているのか。どちらともとれる。 その直前の「たくさん雨が降った」も「彼女」の手紙に書いてあるのか、それとも手紙を読んでいるときの大谷の「場」の状況なのかわからない。どちらともとれる。
 「ときどき引き出しを開けては/筆跡を読み返した」のは大谷だろうと思う。「遺骨」を読み返すとは言わないだろうから。
 では、次の「何度も泣いたし」はだれのことだろうか。「……し」ということばでつながっているから、次の「夜中に叫んで目覚めたりもした」人と同一人物だろうが、これもあいまいである。「彼女」と思われるが、大谷であってもかまわない。
 「ベランダに鳩が」からつづく描写も、手紙のなかに書かれていることばか、大谷が見つめる風景なのかわからない。どちらであってもかまわない。
 この「主語」をあいまいにし、状況を交錯させ、感情を交差させる書き方が、とてもおもしろい。「彼女」と大谷は、どこかでこころが重なっているのである。ふれあっているのだろう。「うっとうしい」とは、そういうこころの重なり具合であり、触れ合い具合であろう。
 だからこそ、大谷は「ときどき引き出しを開けては/筆跡を読み返」すのである。
 それはそのまま「彼女」に触れることではなく、同時に「彼女」の「あの人」に触れることでもある。大谷は今、「彼女」の手紙をとおしてしか「あの人」に触れ得ない。「あの人」と重なり合い、触れ合うには「彼女」をとおしてしかできない。
 その悲しさ、切なさが、「かのじょ」と大谷の区切りをあいまいにする。そこに「詩」がある。