林嗣夫「29 夏の日に」 | 詩はどこにあるか

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 林嗣夫「29 夏の日に」(「兆」131 )。
 林は同じ号に「in松山」というタイトルのエッセイを書いている。「日常の裂けめ」について書いている。それに呼応するような作品が「夏の日に」である。
 「日常の裂けめ」を1連目で定義している。

不思議な記憶が
思いもよらない回路を通って
あざやかによみがえることがある

これを2連目の途中で具体的に描いている。

わたしは仕事を一休みして
ペットボトルで清涼飲料水を飲んだのだ
すこし顎を上げ 口をつけ ぐうんとひとくち飲んだのだ
そのとき
どうしたことか一すじ光が走り
痛いような 悲しいような 一つの記憶がよみがえった

 林は60年前、つまり敗戦のときの夏を思い出している。焼け野原で誰かに手渡された水筒から水を飲んだことを思い出す。今このときによみがえる過去--そこに日常の裂けめを感じている。
 林は、そしてこの不思議な記憶のよみがえりを「思いもよらない回路を通って」と書いているが、私には、その回路が具体的に見える感じがする。林は「思いもかけない」と言っているものは、林が自覚できない、無意識、のものだろう。それは肉体の記憶である。ことばではなく、肉体の覚えていること。ことばにせずに抱え込んでいることがら。

すこし顎を上げ 口をつけ ぐうんとひとくち飲んだのだ

 「ぐうん」としか表現できない肉体の記憶。論理的なことばを拒否してあふれてくる感覚。そこに「通路」がある。
 人にはだれでも具体的に説明できないことがある。「ぐうん」は「ぐうん」としか言えない。しかし、だからといってそれが人に伝わらないとは限らない。「ごく」ではない。「ごくり」ではない。「ぐうん」。
 林は何の説明もつけくわえていないが、このことばに触れたとき、私は、水をのどで飲むというより、のどの奥にあるもの、食道か、胃か、腸か、いや肉体の全身が水を吸い込むようにしてむさぼる感じがした。水を飲むとき、体、のどや胃や腸は水よりも下にあるのだが、その下にあるものが上にある水を吸い上げて飲むかのような、一種の力、水を飲むのだという意志のようなものを感じる。
 私たちは肉体の内部にことばにならない記憶を抱え込んでいる。肉体が動き、ことばにならないものが、ことばになろうともがく。その瞬間に、その記憶の根っこが一緒に動く。「思いもよらない回路」の奥にはかならず人間の肉体の動きがある。それはまだことばとして定着していない力である。

 「兆」の同人の小松弘愛は精力的に土佐方言を取り込みながら詩を書いている。その方言のなかに私が感じるのも肉体である。肉体はもちろん個人のものだが、個人のものでありながら、なぜか個人を越えてしまう部分を持っている。うまく説明できないが、たとえば他人が体を丸くしてうなっている。そういう姿を見ると、ことばで説明を聞かなくても、その人が腹かどこかが痛くて苦しんでいるのがわかる。その痛みは私の痛みではない。私の痛みではないのに、その痛みがわかる。私たちは何かを共有する。ことばで共有するように、肉体でも共有する。その何かのなかには「標準語」ではとらえられない微妙な風土の、つまり同じ土地で共有した空気そのものもふくまれているのだと思う。そうしたものが、小松のことばをとおして立ちあがってくる。私はもちろん土佐の人間ではないから、その空気を、小松が感じているままに受け取ってはいないだろう。というより、たぶんぜんぜん違ったものとして受け取っている可能性の方が強い。それでも、何か、その「受け取った」という感じが常に残る。それは、林のことばを借りて言えば「日常の裂けめ」が見えたということ、私の肉体が揺さぶられたということかもしれない。