高階杞一「金魚の昼寝」 | 詩はどこにあるか

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 高階杞一「金魚の昼寝」(「ガーネット」49)。夏休みの宿題の絵が描けない子どもがいる。何を描いていいかわからない。母親が金魚にしたら、という。ところが、うまく描けない。

「やっぱり無理や」
「どうして」
「動いていて描きにくい」
「しゃあない子やなあ」
 縫い物の手をとめ、腰を浮かせると、お母さんは鉢に手を入れ、赤いデメキンをつかまえて、お膳の上に置いてくれました。金魚はぱたぱたとはねて、水をまき散らしていましたが、やがて動かなくなりました。
「よく観察して描くんやで」
「うん」
 まっ白な画用紙に赤い金魚がひとついる絵ができました。それだけでは少しさみしいので、頭の下に枕を描いてあげました。お母さんは、やさしいね、と頭をなでてくれました。

 この絵にこどもは「金魚の昼寝」というタイトルをつけて夏休みの宿題として提出する。ブラック・ユーモアとライト・バースの組み合わせ、と言ってしまうのは簡単である。生命感覚の欠如という現代の風潮をここから読み取ることもできる。それはそうなのだが、そうしたことを指摘してしまうと、この詩は、本当は怖くなくなる。
 私が怖いと感じるのは、「縫い物の手をとめ……お膳の上に置いてくれました。」という文章である。ことばの動きである。その描写の過剰な丁寧さである。生命感覚の欠如ではなく、感覚の異常な過剰さである。
 「手を止め」「腰を浮かせ」「手を入れ」「つかまえ」「置いてくれました」。
 本当にこれだけの描写が必要だろうか。
 「デメキンをつかまえ、お膳の上に置いてくれました。」だけで生命感覚の欠如は十分にあらわすことができる。そうしなかったのは、高階がそういうものを問題にしていないからである。この描写の過剰さは、母親と子どもがぴったり重なり合っていることを証明している。子どもは、母親の一挙手一投足を、自分の肉体の動きのように描写している。そこが「異常」である。ここに描かれている母親と子どもは別個の存在ではなく、ひとりの人間であるといえるくらいに、過剰に精神(こころ)と肉体が結びついている。一体になっている。
 金魚が動いて描きにくい。動かなければ描きやすい。その認識(精神の運動)が母と子どもの間で共有されているからこそ、母親は子どものかわりに金魚を水槽から取り出し、お膳の上に置く。それがどんな結果を引き起こすかは、過剰な肉体と精神の一体感のうちに消えてしまう。見えなくなる。肉体と精神の一体という至福が、自分たち以外の存在を見えなくさせているのだ。
 この過剰さは、金魚に枕を描いてやること、その行為を「やさしい」と評価し、頭を名手るという行動の過剰さによって、いっそう拡大する。金魚さえも、母親、子どもの肉体、感情と一体になってしまう。(少なくとも、子どもにとっては、そういう状況になってしまう。)
 問題なのは、何かが「欠落」していることではなく(たとえば生命感覚が欠落していることではなく)、肉体と精神の一体感を求めすぎていること、そして過剰に実現しすぎていることなのだ。母親と子ども、さらには金魚との間には、絶対的に結びつかない「欠落」が、あるいは「断絶」があるはずである。三者の間に「欠落」「断絶」があってこそ、三者は三者として存在しうる。そうしたものが、ここにはない。かわりに、過剰な結びつき、過剰な思い入れがある。
 何かが欠落していて存在が壊れるのではない。何かが過剰になって、存在が、その内部から破壊してしまう。それが現代かもしれない。

 夏休みの絵が描けない。だったら描かないでいいじゃない。先生に叱られる。だったら叱られればいいじゃないか。できないことの代償として叱られる。それで十分なはずである。何かが欠落しているのではなく、欠落していてはだめなのだという思いが過剰に存在している。それが人間を破壊している--そんなふうに高階は考えているのかもしれない、と今回の作品を読みながら考えた。