水根たみ『透明な影』 | 詩はどこにあるか

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 水根たみ『透明な影』(あざみ書房)。タイトルを含めて作品が構成されている。無季俳句を行分けしたような印象がある。

限りなく

   遠い
   砂のざわめき

   孤立より遠い むこう

 「限りなく」がタイトルである。3文字ほどタイトルより下がった位置に本文が書かれている。この作品がまず印象に残った。「孤立」にはさまざまな意味合いがある。「孤立」した島なら海の中にぽつんと浮かんでいる。物理的な描写である。一方、「孤立」した人というときは、まわりに人がいながら関係が築かれていなことを指す。心理的な描写である。
 いずれにしろ、「孤立」は「遠い」ことと関係がある。物理的に遠いか、心理的に遠いかの違いはあっても「遠い」ということに違いはない。
 そうした前提の上で「孤立よりも遠い」ということばがぽつりと存在する。この「遠い」は何か不安を誘う。
 このとき、「むこう」はこちらとつながっていないだろう。「むこう」が「孤立」を超えた不安を強調する。

中空に

   とまる鳥
   冷えた指で故郷を指す

 これは詩集中、いちばんの傑作である。さまざまなイメージを喚起する。
 「中空に/とまる鳥」とはどういう状態だろうか。風に逆らって飛んでいるのだろうか。向かい風と鳥の速度が拮抗してとまった状態に見えるのだろうか。
 ところで、鳥が飛ぶとき、飛ぶ方向と足の向く方向は逆である。飛びながら逆の方向を指さす足--ここに複雑な望郷がある。「石もて追わる」と言った石川啄木のような「望郷」、切ない「望郷」が浮かび上がる。
 飛ぶ鳥が足を体内にしまいこんで飛ぶのであれば、実際にはその足が、その指が「冷えた」という状態はありえないかもしれない。しかし、水根にはそれが「冷えた」ものとして感じられる。事実とは違ったことを感じてしまう水根がここにいて、その事実とは違っているということが、逆に水根の思いを深さ、強さを浮き彫りにする。
 鳥は本当に故郷を捨てて飛んで行きたいのか。捨てて飛んで行きたいのに、向かい風が強くて空中にとどまっているのか。故郷を捨てたくないという思いがあって風にあおられるふりをして空中にとまった状態でいるのか。故郷を捨てるだけなら、東西南北どちらでもいいだろう。なぜ、鳥は向かい風の中にいるのか……。
 「望郷」の不思議さが浮かび上がる、おもしろい作品だ。