監督 レクシー・アレキサンダー 出演 イライジャ・ウッド、チャーリー・ハナム、クレア・フォーラニ
アメリカの青年が見たフーリガンの実態……といえば、そうなのだろうけれど、いやあな感じが残る映画である。
アメリカとイギリスの距離がフーリガンを客観的に描いているようでいて、客観的ではない。距離があれば客観的なのではない、とつくづく思う。距離があるために主観的にならざるを得ない部分がある、肉体として実感できないものを想像力で埋めてしまう。その想像力のなかに「主観」が濃密に漂う。それがいやあな感じの原因だと思う。
殴った、殴られたという肉体の痛みだけで、他者と一体になれたと思うのは錯覚だろう。主人公は、友人の仕組んだ罠のために大学を退学になる。そういう恨みと罠を仕掛けた相手に対してきちんと対処しなかったという悔恨が、フーリガンの集団の恨み、悔恨とどこかで重なる、というのはさらに錯覚であり、気持ち悪さの原因である。
距離が有効なのは、自己と他者とをつなぐものはない、重なり合うと思うのはすべて錯覚であるという自覚だろう。自覚した上で、それでは私が他者に対してどう向き合えるかと考え、実行する--そこからしか何も生まれない。それを完全に省略してしまっている。
フーリガンなんてわからない。わからないけれど、その肉体の暴力に引きつけられてしまう、という単純なスタイルをとれなかったところに、この映画の最大の欠点がある。見果てぬ夢を、夢の純粋さ(けっして実現しない)を守るために、あえて見果てぬ夢のままにして抱き続ける。その矛盾を引き受けるための肉体、というものをもっと正面から描いてほしかった。フーリガンの、ただわめきちらすように歌う力任せの歌だけがフーリガンの真実を描いている。試合ごとに暴力を振るい、傷つき、そのあと大声で歌を歌う--その繰り返しの映画だったらどんなにおもしろかっただろう、と思った。