松が二、三本、道のわきに生えている。
あとから思いかえしてみると、二本でも三本でもなく、二、三本として思いかえされる。
べつの日におなじ道をあるいて近づいてゆけば、二本か三本かのいずれかがある。
「二、三本」というのはしばしばつかう数ではあるが、貞久がつかっているようには私はつかわない。松の数を数えるのに「二、三本、」とは私は絶対に(というと言い過ぎだろうか)言わない。「鉛筆を二、三本持ってきて」とは言う。誰かに何かを頼むとき、たぶん相手に「ゆるやかな」印象を与えるためにそういうのだと思う。どちらでもかまわないというニュアンスが、強制力をやわらげるからだろう。(もちろん、こういうことはいちいち意識していうわけではなく、なんとなく、そういうふうにいうのが習慣だからだろう。)そして、そんなふうに実際に「二、三本」ということばをつかう習慣があるからこそ、「松が二、三本、道のわきに生えている。」という文にであっても、最初は違和感はない。すっと読み過ごしてしまう。
ここに「わな」がある。「詩」の入り口がある。深い意識のないまま、すっと貞久のことばに誘い込まれる。
あとから思いかえしてみると、二本でも三本でもなく、二、三本として思いかえされる。
そんな馬鹿な、と言いたいが、最初の一行で「二、三本」を受け入れてしまったので、なんとなくそんな馬鹿な、と言いそびれてしまう。二本と三本は数えなくても一目でわかる。二本と三本を見間違えることなど有り得ない。見間違えたとしても、それを二本か三本かわからないはずがない。二本を三本と勘違いして思い返すか、逆に三本を二本として思い返すかのどちらかである。
貞久は、ありそうで、絶対にありえないことを書いている。
べつの日におなじ道をあるいて近づいてゆけば、二本か三本かのいずれかがある。
これはもちろん、そうである。現実には「二、三本」という数はありえないからである。そんな数は目では確認できない。数えられない。
だから、この行にであって、ふっと安心し、それが体の奥から笑いとなって立ち上がってくる。
しかし、なぜ、こんなに簡単に貞久のことばにだまされたのだろうか。誘い込まれたのだろうか。
たぶん長さが関係している。ことばの単純さが関係している。
「松」という作品は「一目」で読むことができる。ことばの意味を、これはどういうことだろうか、と確認しながら読み進むのではなく、確認できないままに読み進んでしまう「短さ」が、ここにある。
「現代詩」は難解である、とは言い古されたことばであるが、ここには難解さはなく、平易さがある。平易すぎて、すっと読み落としてしまうものがある。
貞久は、これを巧みに利用している。
私たちは文字を読むとき目で読むのはもちろんだが、たぶん目で読んでいるという意識がないまま、目で読んでいる。目がどれくらいの分量のことばなら一気に把握できるかを意識しないで読んでいる。貞久はこれを逆手にとっている。一目で読めることばを差し出して、私たちの目の読解力を笑うのである。
その題材に、また目の読解力をあざ笑うように、道のわきの松の「二、三本」を提出するところが巧みである。とても技巧的であり、その技巧がわざとらしくない。さりげない。だから素直にだまされたような気持ちで笑ってしまう。
では、それにつづく「或るまとまり」はどうか。「公民の庭」はどうか。
これは一目で読める分量ではない。しかし、「松」で、貞久マジックに誘い込まれているので、そのまま引き込まれてしまう。そして連作の最後の「子規の小松」で「二三本の小松」という数え方に出会い、読み進む内に、また「あっ」と叫ばされる。「三本松」はみもと松であり、それは「本から三つに分かれた一本松である」。
え、一体何本が正しい?
正しいものなどないのである。正しいことがあるとすれば、目は錯覚する。一目で何かを把握し、それはしばしば間違いであるということだけが「正しい」のかもしれない。ことばは「目」で読むと、しばしば間違うものである。
貞久はことばを目で遊ぶのが大好きな詩人である。