「砂の薔薇」におもしろい行がある。
結晶と開花への線描がひとりでに
それぞれの真の目的にむかって伸びてゆき
陶酔の もしくは全き放棄の
さなかでみずからの運命を成就するとき
「ひとりでに」。
画家の描く線描が、その存在自身の力で、真の目的にむかって伸びてゆく。画家の思いが線描を動かしているのではなく、線描が動いていく。そして絵を完成させる。
この線描を「詩のことば」に置き換えると、それはそのまま渋沢の世界にならないだろうか。渋沢が試みていることは、渋沢の意志でことばを動かすことではなく、ことばが「ひとりでに」、ことば自身の力で動いてゆく。そして世界を確立するというものではないだろうか。
この「ひとりでに」はしかし自動筆記とは違う。自動筆記というとき、そこには「私」が存在する。「私」が存在しながら、「私」の意識の支配とは別の運動が「私」の肉体を動かして成立するものである。
渋沢のことばの運動は、「自己」の不在が前提となっている。「私」は不在(非在)であって、その不在へむけてことばが動いてくる。そして、その動きのなかに、動きの瞬間瞬間のなかにのみ、「私」は存在するのだが、その存在はひとつの形、きまった形ではない。変化、生成する変化としての「私」である。
わたしたちのかけがえのない不在ゆえの
現前するどんな旋律がありえたろう (「どんな旋律が」)
「私」が不在しなければ何も現前しない。「私」が不在でなければ、どんな生成もありえない。何も立ち現れてくることはない。
ふと「現成する」ということばを、ここでつかってみたくなる。渋沢の詩を把握するのに「現成」ということばをつかいたくなる。このころの渋沢の詩にはそういう要素が色濃く存在する。